無口な侯爵はエメラルドの瞳に恋をする
 ヴィドー伯爵の屋敷は、ベッカー邸に負けず劣らず大きかった。

 建物の外周には大きな生垣が続いている。いつになれば門扉に辿りつくのか分からず、エルは窓から延々と目で追いかけた。

「ヴィドー伯爵家の当主は俺の小さい時からの知り合いなんだ。お前のことは風邪で声が出ないとでも言っておくから心配しなくていい」

 エルは安心した。もし誰かに何か喋り掛けられたら、喋れない自分はおかしな奴扱いされかねない。こんなかしこまった場で、ネリウスに恥をかかせるわけにはいかなかった。

 しばらく馬車を走らせたところでようやく大きな鋼の門扉に辿り着いた。

 門番の前に立つ見張り番が御者のヒュークと少し話して、中へ通された。

 間近で見る伯爵家の外観はまるでお城のようだ。広いエントランスの前には馬車が何台も止まっていて、皆降りるのを待っている。

 ようやく玄関の前まで来て、ヒュークが馬車の扉を開けてエルの手を取った。

 一歩地面に足をつくと、屋敷の大きさを改めて思い知る。

 豪華な煉瓦造りの屋敷は重厚感があり、伯爵家の名にふさわしい重みを感じさせた。

 ネリウスが腕を差し出したので、エルは慌てて手を乗せた。見惚れている場合ではない。今日はネリウスのパートナーになるのだから。

 ────いけない、しっかりしなきゃ。

 中へ通されると、まるで天井から降ってきそうな大きさのシャンデリアが頭上に現れた。ダイヤのように輝く光が反射されてエントランスを照らしていう。

 ネリウスは慣れた様子で足を進めた。連れと言っていたからこの屋敷には何度も来たことがあるのかもしれない。

 エントランスから奥の広間まで長い広い廊下が続く。

 壁には数々の絵画が掛けられ、その時代の名工が作ったと思われる屋敷の柱は細かな装飾を施されていた。ベッカー邸と違い、こちらはかなり華やかな装飾品が多いようだ。

 やがて広間に出た。そこには既に多くの招待客が訪れていた。ヴィドー伯爵家にゆかりのある由緒ある家柄の者達ばかりなのだろう。

 エルはそこに足を踏み入れた途端、えも言えない視線を感じた。

 ネリウスが目立っているからだろうか。それとも、自分がみっともないからなのか。やはりこんな格好をしていても浮いてしまうのだろうか。

「レオナルド」

 やがてネリウスは広間にいた若い男性に声をかけた。艶やかな漆黒の髪に、眼鏡をかけた知的な印象の男性だ。

「やぁ、ネリウス。ん? その女性は────」

 レオナルドと呼ばれた男性はエルを見てやけに驚いていた。

「エメラルドだ。俺の……遠い親戚なんだ。今風邪で喉を痛めてて喋れない。あまり話しかけるなよ」

「なるほど、じゃあ聞かないことにしておくよ。しかし、君が女性を連れてくるなんて珍しいな」

「こいつはレオナルド、ヴィドー伯爵家の次期当主だ」

 そう説明されて、エルは慌てて頭を下げた。

 レオナルドはネリウスと同じぐらいの歳に見えた。だが、ネリウスとはどこか雰囲気が違う。もっと気安い。親しみやすい雰囲気だ。温和で優しそうな顔付きをしている。

「よしてくれ。僕は堅苦しいのは好きじゃないんだ。君ぐらいは普通に扱ってくれよ」

「この歳になるとおちおち抜け出してもいられないから大変だな」

「まったくだ。お嬢さん、今夜は楽しんでいって下さい」

 レオナルドは優しくそう言うと、次の招待客に挨拶するためにそこを離れた。

「レオナルドはいい奴だ。気を使う必要はない」

 エルは頷いた。

 レオナルドは見た目こそ貴族だが、堅苦しい、厳格な性格ではないようだ。ネリウスも見た目は貴族だが、実際は違う。ウマが合うのも納得できた。

 しかし、会場の奥へと足を踏み入れるごとに思った。やはり、自分はどこか浮いているのではないか?

 広間にいた女性達は華やかなフリルのドレスに身を包み、髪型から爪先まで宝石を散りばめた見事な装飾品を身につけている。

 だが、自分はその真逆だ。

 ルーシーの作ったドレスは非常にシンプルなものだった。ネリウスがくれたネックレスも、どちらかといえば飾りっ気のないものだ。

 どちらも気に入っていたが、あまりに彼女達と自分との差に自信がなくなりかけた。

「どうした? 気分が悪いのか」

 ネリウスが顔を覗き込む。エルは慌てて二、三度首を横に振った。

 降り注がれる視線は相変わらずだ。やっぱり、自分がこのような場所にいることは場違いなのではないのだろうか。ネリウスが恥をかいたらどうしよう────。伝えることもできず申し訳なくても俯くしかできない。

 エルが困っていると、突然ネリウスは言った。

「気にしなくていい。お前が一番綺麗だ」

 エルは驚いて慌てて顔を上げた。

 聞き間違いだろうか。そんなことを言われると思っても見なかった。

 一方、ネリウスは今は気まずそうに顔を逸らしている。どういうことだろう? と首を傾げていると、つっけんどんに言い放った。

「決まりさえ守っていればとやかく言われることはない。ルーシーの腕は一流だ。羨ましがっているだけだろう」

 それならよかった、とほっと胸を撫で下ろした。咎められていたわけではなかったのだ。

 しかし予想外だ。ネリウスが褒めてくれるとは思わなかった。

「綺麗」。そう言われただけで幸せだ。こんな自分でも少しは認めてもらえたのだ。そう思うと自信が湧いた。



 やがて音楽が流れ始め、招待客が広間の中央に集まり始めた。

 ネリウスは行くぞ、とエルの手を取ったままそこへ歩いて行く。

 ────大丈夫、練習の通りにやればちゃんとできるはず。

 練習の時と同じようにネリウスと向き合った。けれど目の前にいるネリウスがあまりに素敵で、心臓の鼓動が妙に早くなる。

 皆が動き出し、エルも同じように脚を動かした。

 ルーシーのドレスは踊りやすいようにデザインされているようだ。動きやすく、足がもつれることも引っかかることもない。ステップを踏むたびに美しく揺れて、動きをより優雅に見せた。

 思いのほか余裕が生まれたエルはふっと顔を上げた。

 すると、ネリウスの表情がいつもと違うことに気が付いた。

 ネリウスは普段無表情な、どちらかと言えばクールな印象だ。笑ったところはほとんど見たことがない。

 そんなネリウスが、自分に柔らかく微笑みかけている。

 綺麗な青い瞳が自分を見つめていた。空のように澄んでいて、冷たい印象なのにどこか温かい。

 それを見ると、考えるべきではないと隠していた感情がまたぶり返した。

────私は、ネリウス様が好き。

 この感情は憧れなどではない。もっと始末に負えないものだった。
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