恋に揺蕩う
「あぁ〜、あたしの隣ね、朱里(あかり)だよ、朱里はかわいいよ〜」

ふわふわと酔った声に私は少し笑う。
この家の家主である、彼氏と2ヶ月記念を迎えたらしい紗衣(さえ)は、女座りのまま鼻息荒く、会ったこともない電話越しの男に絶えず相槌を打っている。
どうやらメッセージアプリの二人が映るアイコンを見られ、私のことについて話しているみたいだ。
この子がこんなにも男に甘えた声を出すところを見るのは、5年間の仲で初めてのことだった。

高校生の頃の私達は、無敵で、だけど心は酷く脆くて、自由でわがままで、ときどき大人の顔色を伺いながら、“自分とは何か”を必死に探していた。
通学に使っていたチャリならば、どこまでも行けそうなくらいだった。

転校を繰り返した幼少期、私はなんども慣れない環境に隠れて泣いた。
もうそんなイベントにも飽きた頃、気づけばコミュニケーションの難しさにはそれほど困ることのない、“自分”ができていた。

今日だってそうだ、まだ学生として自由な私は、紗衣の幸せブームに乗っかれるきっかけを探しに来た。
この唯一の強みと言ってもいいコミュニケーション能力で、男に甘え尽くして、そろそろ幸せの1歩くらいドカンと踏み込んじゃおう!だなんて思っていたのだ。

ところがなんだ、この状況は。

かつて好きな男の子に些細に話しかけることすら躊躇っていた隣の乙女は、好きな男の子には話しかけすぎて仲良くなるはいいものの女として見られないといった経験過多、の私より先に、幸せの10歩を軽やかなスキップで進んだのだ。

とはいえど、今ではもうそんなところをコンプレックスのように感じることは、なくなった。
紗衣が冴えない地味女から、華奢で痩せたイイ女の香り漂う乙女になったことが、彼女の完全なる努力の賜物だと分かっているからだ。
一方私はというと、万年ドラム缶体型に、運動音痴なくせに華奢とは遠く離れた筋肉付きのいい全身でこの人生、過ごしてきた。
もちろん、どうにも日本人女性としてもてはやされる魅力には程遠い、と自ら早々に気づいていた。
だから周りと同じになることをやめたのだ。
こんな体型でも、人にないものを誇りに思いながら、したいことをして、可愛く生きる、そう決めたのだ。

だから同時に、人のせいにしない、ということも心に決めていた。
人と関わって惨めさを感じるのは自分がこれでいい、と現状に満足した結果であるし、幸せの1歩が未だ半歩の勇気にも届いてないことは…

「アハハッ…あ、ちょっとぉ、トイレ行ってくる」

そう言って紗衣は電話を持つ手は頑なに、フラフラと席を立つ。
しばらくすると玄関にさらさらと向かっていった。
あの子にとっての“トイレ”とは、夜道の散歩なのだろうか、夜風を大きく吸い込むようにゆっくりとドアが開き、「気をつけて」と言いたくて「き」を発音した辺りで、ドアは一気に閉まった。
その瞬間、私が毛嫌っていた酔っ払いって、こういう面白さがあったんだな、なんて思って、1人で笑ってしまった。

しばらくして、私しかいない乙女の部屋で、大きく息を吐いた。
人の幸せを見つけては病むことの繰り返し、こんな楽しい時間が私にもあるのに。
このまま20代、みんな結婚していって、私だけ1人、今のこの状況のように、息を吸うと苦しいからって吐いてばかりになるのかなあ…

なんだか空気の重さに耐えられず、辺りを見回した。

「ウエェッ…紗衣の飲んでたこのお酒…消毒液じゃん…(笑)」

「ええ、マンガやばっ、こんな趣味あったの?!(笑)」

「っはぁ〜、ソファだいすき〜、もう結婚しよ〜!」

──とかれこれ誰もいない部屋で喋り散らす…
長く一緒にいても、お互いまだまだ知らないことだらけ。
最近、独り言を言うことでなんだか心を落ち着ける癖ができているみたいで、そんな自分も、別に嫌いじゃなかった。

だけれど、マイナスな独り言までたまに吐く自分には目を背けていた。
先のことなんてわからないのに、傷つきたくない気持ちが先行する。

さっきの紗衣の「かわいい」って言葉さえも、素直に受け取って喜べばそれで終わりなのに。
昔から軽度の虚言癖を持つ自分に、人の言葉を信じることなどもうしんどかった。
そんな癖が明るみに出たのはいつからなのかと考えてみると、割と鮮明に思い出す事件に照らされて、すぐに答えが出てくる。
小3の冬、試し行動を拗らせた女児であった私は、当時受けていたいじめを引き金に、親以外の大人に心配される気持ちよさをだんだんと知っていた。
ちょっとした自作自演の失敗や、ドリルでわざと間違った回答を繰り返す…そんな小さいことで放課後の勉強に付き合ってくれる先生たちをはじめ、自分に特別に構ってくれるならもう何でも良かった。
それがある種歪んだ幸せだった。

モテていたのもちょうどその頃か…。
仕舞い込んでいた色々な感情が鮮やかに見えそうなところで、ピタッと思考をやめた。
炭酸嫌いの身体の拒否反応に逆らうようにして、そんな記憶まで、また隅へ押し込むようにゴクゴクとお酒を飲んだ。

紗衣がいなくなると虚空の時間が流れる。
つい何十分か前まで、二人で大笑いしながら20歳になったお祝いにお酒を飲んでいた。
幸せになろうね、と口から出た二人のハモりは、部屋中に響いて世界が明るく照らされたような気分だった。

長らく裏向きにしておいていたスマホに手を伸ばす。
さっき「好きに使って〜」と紗衣が差し出してくれたタコ足配線に目を見張りながら、やっと見つけ出した充電コードを抜いた。

さて、夜道に駆け出した乙女の王子様?こと紗衣の彼氏は、4つ上のフリーター。
とにかくまだラブラブで、インスタのストーリーが更新されるたびにこっちがドキドキするようなくらいだ。
特に興味も出ない昔の友人のストーリーを連打しながら、頭では未来の彼氏との日々を夢見た。

ちなみに今まで特に彼氏がいなかったわけではない。
向こうからそのようなニュアンスのことを囁かれ、恥ずかしさも相まって「んー、じゃあ付き合う?」と謎のポジションから淡々と言葉を返し、可愛い恋人ごっこくらいはしていた。

指のスクロールと目の焦点が合わなくなってきたくらいでドアの開く音がした。

「ただいまあ〜、アイス食べる?これ見て、あやとくんがね…ん?あいと…?あれっなんだっけ!アハハッ、まあいいや、なんか美味しいらしいよ、あげる♡」

ついさっきまで電話していた男の名前だろうなあ、と、つい吹き出して笑ってしまった。
私は貰ったアイスを開け、それを食べずに紗衣の口元に持っていった。
「紗衣が毒味してよ〜」なんて冗談を言いながら笑い合い、また二人で仲良く並んだ。
この時期にしては凍える冷たさのそれを、口に詰めた。

しばらく黙っていたが、口の中が甘たるく溶けきったあたりで、私は口を開いた。

「あのさ、紗衣は彼氏とどうやって出会ったの?」

できるだけラフに聞いたつもりだ。
恋愛について不慣れな私にとってこんなプライベートなことを聞くなんて、ちょっぴり恥ずかしさが勝つ。
だから強がりが出たみたいだ、私の悪いところ。
まともな返答など来ないとわかっているけど、逆にそうとわかっているから聞いたのかもしれない。
テキトーに答えられて、「まあ運がよかったみたいな?!」なんて馬鹿笑いしたかった。

紗衣がなかなか口を開かないので首を傾げた。
「無理に答えなくていいよ(笑)」と誤魔化そうとして息を吸った。

「えーとね、マッチングアプリだよ〜、遊ぶために入れてたのにね(笑)なんかちゃんと好きになっちゃったんだよね」

口を開いた紗衣はさっきとは打って変わって、しみじみとした表情を見せた。
マッチングアプリを軽視していた私達の会話に、どうやら革命が起きたようだ。
思いもよらぬ幸せの取っ掛かりに、ネガティブが口を回らないよう、早とちりに返した。

「え、そうだよね、遊んでたのは知ってた。だけどそんなの聞いたら私始めたくなっちゃうよ(笑)」

本当はそんなもの怖くて、始める気などさらさらなかったが本能に押され口が勝手に動いた。
照れ隠しと便乗したと思われたくない気持ちが入り混じった笑いが出てしまった。
紗衣はなんて返すだろう。

「始めてみてもいいと思うよ。さっき話した男の子いたでしょ、あの子で遊ぶの終わりにするの」

紗衣も同じ、愛されることを怖がっていた仲間だ。
彼氏とは順調に付き合っているが、名前も住みも知らない“イケメン風”の男と話す楽しさや身体を交わすだけの快楽は、恋人ができてもなお満たされ切れない膨大な承認欲求を押さえ込む大切な手段だった。
だからこそ、彼女のその言葉が成長を含むものだとすぐに感知できた。
その言い方と表情につけられたオーラは、寂しそうで幸せそうで、そのなんとも言えない視線が、私の鼓動をリズミカルに跳ねさせた。

冬の匂いが立ち込める11月7日、私はその場でマッチングアプリをインストールした。
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