返し歌
 出会いと別れは切っても切れないもの。どんな出会いにも、必ずその後ろに別れの影がぴたりと着いてまわるのです。私にはその『別れ』に対する覚悟ができません。したくないのです。だから、人を避けて生きてきました。いつも一人ぼっちで生きてきました。それでも私は何不自由なく生きてきました。

 そんな私に興味を持つ方なんてほとんどいませんでしたが、どうした事か、稀に興味を持つ方がいたりするのでした。しかし、その様な変わり者達も、頑なに心を開かない私に辟易して去っていきます。それで良いのです。それくらいの出会いと別れなら覚悟はいりませんから。

 そんな私も気づけばもうよい歳になりました。行き遅れと呼ばれる歳。昭和三十五年八月。あれから十五年。私は塀の中に閉じこもったまま。高い高い塀に囲まれた心の底で、あの別れを忘れられずに今も生きています。同じような思いはしたくありません。あの時もそんな覚悟は持っていませんでした。

 真夏の照りつける太陽の陽射しは、その光りの中に何か刃物を仕込んでいるかの様に、私の肌をぷすりぷすりと刺していきます。額に吹き出しては流れ落ちる汗を拭いますが、まるで追いつきませんでした。昭和二十年八月九日、その日の前日、私はN県の隣にあるS県の親戚の家に使いの為、向かっております。

 駅から親戚の家まで続く田圃道。青々と立派に育った稲が風にざわりざわりと揺らされ、そして、その横を流れる小川には少年が一人、のんびりと釣糸を垂らしております。私は学校で習った唱歌を口ずさみながら、 田圃道をゆっくり歩きました。使いは急ぐものではなかったからで、一泊して帰るつもりです。

 親戚の家は少し高台にあり、そこからは大村湾を挟み、私の住んでいるN市を薄らと見ることが出来ました。しばらくその景色を眺めていた私。そして、親戚の家にたどり着くと、ちょうど叔父さんと叔母さん、そして従兄の(けん)ちゃんが帰ってきました。私に笑顔で手を振る三人に、私も手を振り返します。

 用事を済ませた私は少し後に帰ってきた従妹の(きよ)ちゃんと二人で散歩に行き、木陰でお喋りをしたり小川に足をつけて遊んだりして過ごしました。そして、八月九日。あの日がやってまいりました。十五年たった今でも鮮明に覚えております。忘れる事なとできるのでしょうか。

 私は昼過ぎに親戚の家を出れば間に合うこともあり、午前中は清ちゃんと一緒に叔父さん達の畑仕事を手伝っておりました。昼前の事です。はるか上空に数機のB29の影が微かに見えました。その時は時計など持っておらず詳しい時間は分かりません。後から聞いた話しでは、十一時二分だったそうです。

 目もくらむような閃光と共に、空気を震わし伝わってくる爆音。そして、今まで見たことの無い、天高く昇るきのこのような雲。私はそれが家族の住むN市で起こった事が分かりました。

「何ねぇありゃぁ」

 健ちゃんが驚きを隠せない表情できのこ雲を見つめています。すると叔父さんがぽつりと呟きました。

「ありゃ、昨日の新聞に載っとった広島に落とされたっちゅう新型爆弾じゃなかね」

 新聞には詳しい事は伏せられており、相当の被害、人道を無視する惨虐な新爆弾などと書かれてあった事を覚えております。それが両親や妹達のいるN市に落とされた。私は目の前が真っ暗になってしまいました。

 すぐに帰ろうとした私は叔父さん達に引き留められました。確かに今思い起こせば無茶な事でした。当時十五歳の小娘が爆撃されたばかりのN市へと戻ると言えば、誰もが止めるでしょう。しばらくして叔父さんがN市内へ様子を見に行きました。帰ってきた叔父さんの様子はとても尋常ではありませんでした。

「何もかもが無くなっとった……粉々やった」

 力なくそう言った叔父さんは、奥の部屋へと引き込むと、夜まで出てきませんでした。部屋の中から聞こえる啜り泣く声。叔父さんの言葉と聞こえてくる啜り泣く声。私はそれで多くの事を察しました。力が抜けました。私は愛する者達の全てを失しなってしまったのです。

 帰る家の無くなった私。しかし、叔父さん達は、そんな私を引き取って下さいました。そして、自分の子供と同じように可愛がって頂き、大変有難く感じていました。しかし、その頃から私は心の中に塀を作り始めていたのです。いつか、この生活にも終わりがくる。別れがある。そこから逃げ出したかった。

 それから一年は叔父さん達と暮らしましたが、やはり、私はこの家を出て行くと言う意思は変わりませんでした。当時、U町と呼ばれていた隣町の温泉地にある旅館へ住込みの中居見習いとして働く事に決めたのです。案の定、叔父さん達は引き止めました。でも私はそれを断り、住込みとして働きだしました。

 叔父さんや叔母さん達は私の事を気にかけ!手紙をくれたり、様子を見に訪ねて来てくれていました。そして、年頃ともなると縁談やなんやらの話しまで。しかし、私はその全てを断り続け、やがて叔父さん達も諦めたのか、手紙位のやりとりだけが残りました。その手紙も今では途絶えてしまっております。

 そして……今に至ります。三十を迎えてもなお独り身の私には色々な噂が立ちました。しかし、それを気にしない私に誰もが興味を引かなくなり、必然的に休みの日は部屋で読書をしたり、ふらりと散歩に出たりしておりましたが、そんな私にいつも声をかける変わり者がいます。旅館の女将(おかみ)の息子です。

 三人兄弟の末っ子。歳は私よりも十歳上。あの戦争で徴兵され片足を失っており、杖をつきながらひょこひょこと歩いています。しかし、元々、東京の大学で学ばれ、学問のできる方のようで、本当ならそれなりの仕事を任せられるはずなのですが、このような体で表に出ては旅館に迷惑を掛けると辞退されたようです。

 その方はふらりと私の所にやって来て、今読んでいる本の話しや他愛もない世間話、美味しいお菓子を手に入れましたと持ってきて頂き、それを縁側で一緒にお茶を飲みながら食べる。ただそれだけで恋愛沙汰に発展する事も無く、どちらかと言えば年寄り同士の茶飲み仲間みたいでした。

 もちろん、その方の容姿が酷い等という訳ではありません。幼少の頃から嗜まれていた剣道のお陰で引き締まった体躯をされ、身なりもいつも整えられております。それに、片足になったとはいえ、今でも素振り等を続けられており、薪割りの仕事等も本当に片足なのかと思える位に軽々とこなされています。

 ほんわりとした優しい笑顔、時折、寂しそうに遠くを眺める瞳。若い頃はさぞかし女性にもてていたであろうと思ってしまう程。その方は私の心の塀に気づかれているようで、今まで私に言いよってきていた男性達とは違い、無理矢理塀を登ってこようとはしません。塀の外から私を気遣い話し掛けて来ます。

 だから、私もその方とは距離を置こうとせずに話す事が出来たのでしょう。しかし、不思議です。この旅館には私よりももっと若く、魅力的な女性はたくさんいるのです。なのに、何故、私へと話しかけて下さるのだろう。三十で行き遅れの独り身の女。そんな女と話しをして何が楽しいのでしょう。

 とあるお休みの日の事でした。私はいつものように、春の暖かな陽射しが降りそそぐ縁側に座り、読書をしておりました。

「やぁ」

 あの方です。春の陽射しに負けないような暖かな笑顔を浮かべ、私へと声を掛けて来ました。私はそれにぺこりと頭を下げます。私へと近付き前に立つと空を見あげました。

「今日はとても天気が良い。どうです、散歩にでも行きませんか」

 突然のお誘いでした。いつもなら、この縁側でお話しをするか、お茶を飲む位だけのその方の言葉に、私は戸惑いを隠せません。それを見て困ったような笑顔を浮かべてその方が言いました。

「僕はあなたと桜が見たかったのです」

 私は本を閉じると、立ち上がりました。その方の顔が嬉しそうな表情に変わります。私達はゆっくりと土手沿いの桜並木を二人並んで歩きました。私なんかと歩いている姿を見られたら、なんだかんだとよからぬ噂も立つでしょう。しかし、隣を歩くその方はそんな事など気にしていない様子です。

 大きく四方へと広がる枝々に咲き溢れる淡いピンク色の桜の花。ふわりとした風にのり、その花弁がひらりひらりと宙を舞っております。それが土手のずっと先迄続いており、どこか違う世界にでも紛れ込んだような錯覚に陥ってしまいそうでした。私はそんな桜の花へと目を奪われている時です。

「千鶴さん、あなたは幸せにならなければならないのです」

 私の横で桜を見上げていたその方が静かに言いました。私は視線を桜からその方へと向けます。その方も私を見つめていましたが、黙って俯く私に言葉を続けます。

「僕はあなたの叔父さんに会いました。そして、あなたの事を聞きました」

「どうか勝手に会いに言った事を、怒らないでください。僕はあなたの事が知りたかった。何故、あなたが心に塀を作って、他者を拒否しているのか……僕はその理由が知りたかった」

 話しを続けるその方へ私は背を向けました。怒っている訳ではありません。悲しかったのです。あぁ、この方とも……

「失礼を承知で言います。あなたはあの日、家族や親友といった愛する人達を失った。その悲しみは……とても言葉では表せないでしょう。あなたは二度とそんな気持ちになりたくない……だから心に塀を作って他者を入れなくした。そうすれば、別れが来ても辛さや苦しみを感じる事がないように」

「でも……本当は、あなたはそうじゃなく、亡くなった家族や親友に負い目を感じているのではありませんか?一人、生き残ってしまった事に、罪の意識を抱いているのではありませんか。だから……」

 私は自分の体が強ばっていくのが分かりました。

「あなたは自分一人だけ幸せになってはいけないと……」

「千鶴さん、あなたは別の理由で誤魔化しているのではありませんか?」

 びくりと震える私の体。

「それは……違いますよ、千鶴さん。あなたは亡くなった方の為にも幸せにならなくていけないんです。そうじゃなければ、あなたの心の中にいるご両親や兄妹、そして親友達はいつまでも悲しい顔のままです」

 父さんや母さん、皆が悲しい顔のまま……その通りです。私が思い出す皆の顔はいつも悲しそうな顔ばかり。

「忘れる事なんて出来ません。忘れなくても良いんです。でも……自分の幸せを拒否して、悲しみだけを……罪の意識だけを抱き続けていては、いつまでも皆さんは浮かばれません」

「私は幸せになって良いのでしょうか……皆、死んでいって……一人、残った私が幸せになっても」

 ぽろぽろと涙が頬を伝い落ちていくのが分かります。あの日、私は涙が枯れる程に泣きました。もう、一生泣けないだろうという位に涙を流しました。それなのに、まだ私には流せる涙が残っていたのですね。

「ならなくては……いけないのです」

「貫太さん……」

 私は思わずその方の、貫太さんの胸へと飛び込んでしまいました。泣きました。三十の女が情けなく大声を上げて泣きました。それを嫌がること無く受け止めてくれている貫太さんの温もりが私へと伝わってきます。久しぶりに感じる人の温もり。

 あれから私は貫太さんと相変わらず世間話や縁側でお茶を飲んだりして過ごしています。変わらない二人。ただ一つだけ違う事があります。私は貫太さんの側にいると心がとても暖かくなるのです。まだ、長年築いてきた塀は全て壊せた訳ではありません。でも、寛太さんとなら一緒に壊せていける気がします。
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