信じてもらえないかもしれませんが… あなたを愛しています

 漸く向き合う決心がついたのに、彩夏は自分から離れたいと思っている。
残念だが、彼には自覚があった。嫌われる理由はいくつもある。

 樹は、酒を飲むと母に罵声を浴びせ暴力的になる父の姿が忘れられない。
自分も妻にそんな事をする人間になるのではと、怖かった。
その潜在的な恐怖の為か、遊ぶことはあっても、自分から女性に心を開くことが出来なかった。

 両親の不仲を見て育った彼は、妻にどう向き合えば良いのか分からなかったのだ。
誰も教えてはくれない。勿論人に教えてもらう事ではないのだが。
女性にどんな言葉を掛ければいいのか、妻とどんな距離で接すれば良いのか
彼には理解出来ない事ばかりだった。

 彼はあの日…幼い彼女に何て声を掛ければいいか迷った頃のままだった。
大切にしたいと思うのに、どうすればいいのか怖気づいているうちに
月日が過ぎてしまった。


 今朝、シンポジウムで彩夏が講演すると聞き、
ドライブすると見えを張ったが、実際はホテルでインターネットの配信を見た。

 地味なグレーのスーツ姿で壇上で話している彩夏。
やや低い落ち着いた声に好感が持てた。柔らかく耳障り良く心に響く。
自分の経験に獣医師としての知識を絡めて、解りやすく喋ろうとしている。
知的な彼女に一気に思いが膨れ上がってしまった。

 いや、あのセーラー服姿を見た時から惹かれていたと言ってもいい。
いくら何でも、制服姿に魅力を感じたとは言えず、あの時は逆に避けてしまったが…。
先週ホテルで見かけたのが彩夏だと知って、改めて気付いたのだ。
彼女に好意を持っている事に。
制服姿の女の子が、今や彼を惹き付ける存在になっている事に。
言い訳はしない。だから今朝牧場で、思わず愛しくて抱きしめてしまった。
衝動に負けた自分自身には驚いたが、彼女とのキスは特別な予感がした。

これまで感じた事のない幸福な味だ。
彼女を手放す訳にはいかない。


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