One week or more?
【第2土曜日】
 池袋東口のとある美容室。
 従業員10人を束ねる店長の晶は、髪の長い女性が店の前を通る度にドキリとしていた。月曜日の夕方に電車に乗り合わせたあの女性。疲れた雰囲気と無造作な髪の毛が色っぽくて、思わず手を伸ばしそうになってしまった。咄嗟に話しかけてしまったが、不審者に思われはしないかドキドキした。店に客を呼び込むホストなら、もっと気の利いた声のかけ方をしただろうが、晶はナンパさえしたことがない。
 名刺を渡すので精一杯だった。女性はすぐに電車を降りてしまった。確か九段下から乗って来たはず。職場が九段下なのだろうか。そして自宅が神楽坂? 池袋の晶の店まで来るには動線が悪いが、あの髪のままずっと居られるはずはない。行き付けの美容院が潰れたと言っていた。晶は心の中で呪文のように「来い来い」と唱えていた。
 予約の電話でも入れてくれれば無理矢理にでも自分が担当すると決めていた。予約無しで来たとしても、他の従業員には触らせない。あの髪は俺がやる。

 麻衣子は昼近くにゆっくり起き、先に起きて昼食の準備をしていた慎吾に、
「今日は美容院に行くわ。そのまま家に帰る」
 と言った。慎吾は、
「もう帰るの? もう少し居れば良いのに。1年間会えないと思うと1週間じゃ足りない」
 と言った。麻衣子は笑いながら、
「流石の私も出発直前は部屋を片付けておきたいわ」
 と答えたが、麻衣子の部屋は常に整頓されているので、今更片付けるところなど無い。それでも、留守にするのは憚られた。
「次に会えるのはいつ? 知子さんの店の送別会?」
「そうね、そうなると思う」
「あー寂しいよぉ、麻衣子ぉ」
 珍しく駄々をこねる慎吾に抱き付かれて、麻衣子は笑ってしまった。
「まるで幼稚園の時の慎吾そのままだわ」
 慎吾は幼稚園の頃、色白で細くて小さくて泣き虫で、女の子のようにかわいかったのだ。それを麻衣子は思い出していた。高校時代再会した時は、すっかり男っぽくなっていて名前を言われても気付かなかったほどだ。
「今まで仲良くしてくれてありがとう。これからも宜しくね」

 池袋駅の東口を地下通路を通ってタカセの前に出、そこからサンシャインに向かって歩いた。シネコンの入ったビルの1階にその美容室はあった。電車の中で声を掛けて来た男性は…すぐにわかった。麻衣子がドアに近付くと物凄いスピードで店の奥から走って来て、ドアを開けてくれた。
「来てくれたんだね! ありがとう!」
 びっくりした~。
「あ、はい。声を掛けて戴いて感謝しています。困っていたので。この髪、何とかして下さい」
「任せて下さい」
 そう言えば名前さえ聞いていなかった。カルテに個人情報を記入してもらいながら、晶は心が弾む思いだった。年齢を見ると晶より8歳上だ。若いなー。せいぜい2、3歳の違いだと思っていた。
「さて、どうしましょうか。お好みのヘアスタイルにいたします」
 プロフェッショナルの顔付きに戻って椅子に座る麻衣子の顔を鏡越しに見た。
「実は年明け早々に海外に赴任するんです。だから…」
「えっ!」
 大きな声を出した晶に店中の視線が集まった。麻衣子も驚いた。カルテに書かれた会社名は確かに大手の機械メーカーではある。女性の麻衣子がその会社で海外赴任する立場にあるとは、
「かっこいいですね!」
「あ、あぁ、ありがとうございます。なので、手のかからない髪型が良いかなーと」
「そうですね。そしたら…ボブにしましょうか。このまま前髪は作らないようにして」
「そしたら前下がりボブに挑戦したいです」
「かしこまりました。一番長い部分はデコルテが良いと思います。そのまま伸びたとしてもバレッタで留まりますから。三段階に切って行きますので、丁度良いと思ったところでストップと言って下さい」
「わかりました。お願いします」

 麻衣子の髪は1本1本がしっかりしていて、典型的な日本人女性の黒髪だった。染めるのは勿体ない。海外に行くなら尚更この黒髪のままが良い。
「はい、出来ました。いかがでしょうか」
 ブロウを済ませ、後ろ鏡を持つ晶は自分自身で出来栄えに満足していた。艶のある麻衣子の髪は知的な麻衣子の顔を一層女性らしく際立たせた。
「凄い。素敵。ここまで短くしたのは何年振りかしら。軽くて良い感じ」
「良かった。この髪型だと手入れも楽ですからお仕事の妨げにならないと思います」

「今日はお代は戴きません。海外赴任の餞別です。その代わり帰国したら一番に髪をいじらせて下さいね」
 と晶は言った。麻衣子は恐縮したが、これからこの店を行き付けにすれば良いか、と有難く晶の好意を受け取った。
「新橋の友達の店で大晦日に年越し送別会をするんです。宜しかったらいらっしゃいませんか」
 晶は大晦日は休みだろうか、知子は人数が増えることを許可してくれるだろうか、と心配ではあったが一先ず誘ってみた。晶は目を輝かせて、
「必ず伺います」
 と頭を下げた。誘われたことが嬉しくてしょうがない。大晦日は店が終夜営業だがなんとか抜け出そう。俺はこの女性が好きだ、一目で恋に落ちた、と晶は思った。
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