私の好きな人
智弘は多分人を殺している。一人や二人ではないと思う。買ったばかりのシャツを無くしたと言ったり、家に帰ってきてすぐに風呂に入ったり、腕や顔に引っかき傷があったり。そんなことが頻繁に起こっていた。極めつけはこの前、部屋を掃除した時だった。引き出しが少し開いていて、閉めようとしたが何かが挟まっているようで閉まらなかった。挟まっているものを確認しようと中を覗いてみると、奥には血で汚れたナイフが隠されていた。見つからないような場所に血のついたナイフなんて、明らかに人を殺している。

私が初めて彼に出会ったのは夜中の公園だった。彼は人を殺していた。
刑事ドラマの冒頭のシーンみたいに誰かともめているうちに、というわけではなかったと思う。明確な殺意をもった、相手の死を目的とするのではない、純粋にただ殺すことを目的とした殺人。それを見た私は、かつてないほどの興奮を、昂りを感じていた。口元に微かに浮かべる笑み、そこから滲み出す控えめな、しかしその奥にある巨大さを感じさせるほどの狂気。それはただただ美しく、世界中のどんな絶景よりも、どんなに尊大な宗教画よりも、綺麗で、透き通っていた。不謹慎ながら、私は彼のその姿に惚れたのだ。
そういえばあの時もナイフを使っていたな、と懐かしく思う。
今日は私が彼を見つけて2年の記念日。ここまで長かった。見ず知らずの智弘とどうにか関わりを持って、同棲にこぎつけた。涙ぐましい努力だと、自分でも思う。

ただいま、の声。時計をみると11時過ぎ。今日も遅かった。
おかえりなさい、と出迎えて抱きつく。血の匂いはしなかった。柔軟剤と彼の匂いが混ざったいい匂いがする。だけど顔についている血が遅い帰りの理由を物語っている。それに全く気づくことなく、キスで応える彼。唇を重ねる。こういうところもかわいくて、最高に好き。
「お風呂入ってきなよ、沸いてるからさ。あと入浴剤も買っといたから。」
「うん、ありがと。」
お風呂場の鏡を見て気づくだろうか、それともその前に顔を流してしまうだろうか。気がついて焦る姿を思い浮かべると、普段冷静な彼にあまりに似合わないものだから、つい笑ってしまった。
いつもなら、彼がお風呂に入っている間にご飯を温めるのだけど、今日はやらない。だって今日は記念日だから。

10分ほどで彼は出てきた。思っていたよりも早かった。お風呂場の扉が閉まる音がする。
「お先にー、ってあれ?」
リビングの方で声がする。少しづつ、足音が近づいてくる。パタパタパタと足音が早くなっていく。足音から感情を感じる。

ドアが開いた。彼の部屋。私の手には、彼のナイフ。
体から立ち上る湯気はお風呂上がりだからなのか、それとも別な理由のものなのか。海がさーっとうつろうようにして、彼の表情が変わっていく。驚き。焦り。次に来るのは……。
波に呑まれるようにして私は押し倒された。
決して体格がいい方ではない、むしろひょろっとしている方な彼にもこんなに力があったのだと知る。押し倒すといってもそれは本気のもので、また別の意味のものとは比べ物にならないほどであった。
彼の顔と向き合う。表情から怒りを感じることはできなかった。彼は少し笑っていた。あのときのように。白い手は私の腕から首へと向かう。腕への圧迫が解け、ナイフを取り落としてしまったことに気づく。
「何してたの?」
いつも通りの優しく諭すような声。でもその裏側には、あの狂気が潜んでいるのだと思う。息が苦しい。心臓の拍動が早まる。しかしそれは単に、生命の危機によるものではなかった。
これだ。この感覚だ。静かな狂気に呑まれ、今まさに自分の命が消え去ろうとしている。あの夜と同じ、いや、あの夜以上の昂りを感じる。
「答えないの? って、ああ、そっか。首しめてるから無理だよね。ごめんね。」
答えさせる気は無いようで、彼の手に、さらに力が込められる。だんだんと体重をかけてくる。このままだと本当に死んでしまいそうだ。

ジジッ

彼の手が離れ、私に覆いかぶさっていた体が床に転げる。あの表情はなくなり、代わりに戸惑いが彼の顔を覆う。悶絶する彼を脇目に、ナイフを拾い上げる。お風呂上がりのスタンガンはよく効くでしょうね。
戸惑いが恐怖に変わってしまう前に、彼を貫く。動きを止めた彼の表情には見覚えのある笑みがこぼれていた。この幸せ者め。顔の筋肉が緩んだ。今の私はどんな顔をしているのだろうか。

私はあの夜、彼の狂気に惚れた。好きになった。だけど今夜はそれ以上に、好きになった人がいる。姿見に映る自分を見つめる。こんな夜を過ごすのは何度目だろうか。
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