おじさんには恋なんて出来ない
 幸いなことに、美夜は知り合いにオルガニストがいた。触りだけでも教われば、弾けるようになると思ったのだ。

 しかし考えていたほど簡単なことではなかったらしい。

 挙式時の演奏はコンサートとは違う、曲を弾きながら式の進行具合も見なければならなかった。もっと綿密なものだ。しかも奏者は基本参列者たちに背を向けた状態だから、しょっちゅう鏡を見て確認しないといけないし、タイミングに合わせて音楽を止めたり始めたりとゆっくりして見えるわりに忙しないのだという。

 だが、ピアノが弾ける美夜ならコツとタイミングさえ掴めばできるだろうと言われた。

 挙式まではまだかなり時間がある。練習する時間は十分にあった。



「結婚式で弾くのか?」

 同じ食卓を囲みながら辰美と向かいあって食事を突く。

 その話を告げると辰美は驚いていた。経緯を話すと、納得した。

「そうか。君の演奏ならきっと喜ぶだろう」

「どうでしょう。オルガンは初心者ですから。弾き方もちょっと違いますし……でもみんなから見たら音が違うだけで一緒なんでしょうね」

「そうだな。俺も音が違うだけだと思ってたよ」

「知り合いがオルガン持ってるので、しばらくはそれを貸してもらって練習することになりました」

「そうか……。忙しいだろうけど、無理をしないようにな」

 美夜は仕事上夜に家を開けることが多い。辰美とは真反対の生活を送っている。他のアーティストのツアーに引っ張られながら自身のライブもこなして、練習してとなると、忙しさは以前の比ではない。

 こうして辰美の家に来て食事するのも珍しくなっていた。

 ────辰美さん、怒ってないのかな。

 美夜は心配だった。辰美と再会してもう一度付き合い始めたはいいが、会う時間はなかなかとれないし、しょっちゅう仕事の連絡が来るから一緒にいてもスマホを見ている時間が多い。

 もちろん全く会えないわけではないしデートもそれなりにしているが、辰美は不満に思わないのだろうか。

 自分の両親のことを思い出す。物心ついた時、父は忙しい母にいつも怒っていた。辰美もいつかあんなふうにならないだろうか。

 食事を食べ終わり、シンクに食器を持っていく。だが、洗おうとした辰美を美夜は制した。

「あ、洗い物は私がやります」

「いいよ。少しだけだから、美夜さんは休んでてくれ」

「駄目です! これぐらい私がやらないと……」

 美夜が意地を張ると、辰美は「分かった」とすぐに引いた。

 呆れられただろうか。仕事で忙しいのは辰美も同じなのに、辰美にばかり負担をかけているような気がする。

 音楽と辰美どちらを取るかと言われたら、自分は一体なんと答えるのだろう。どちらかを選ぶなんて無理だ。音楽も辰美もどちらも大切なのに。

 洗い物を終えると、もう夜の十時になっていた。そろそろ帰って練習しないといけない。

「辰美さん、私そろそろ────」

「ああ、車で送るよ」

「いえ、そんな。いつも送ってもらってますから」

「こんな時間に一人で帰るなんて危ないよ」

「けど……」

「役得だから。気にしなくていい」

 辰美はそう笑って置いてあった車のキーを掴んだ。

 辰美の家に来ると、美夜は度々辰美の車の世話になった。辰美はどうやら美夜を一人で帰らせることを心配しているらしい。駅も近いからそんな心配はいらないのだが、彼なりに一緒にいる時間を稼ぎたいのかもしれない、と思うと切なかった。

「……ごめんなさい、辰美さん。迷惑ばかりかけて……」

 辰美は運転しながら「そんなことないよ」と言う。辰美ならそう言うと分かっていたが、否定の言葉を聞いても安心はできなかった。

 窓の外の景色を眺めながら、美夜の口からため息が零れる。

「美夜さん。君は……」

「え?」

「……いや、いい。ほら、もう着くよ」

 あっという間に夜のドライブは終わりを告げた。

 美夜は助手席から降りて、開いたままの窓から辰美の顔を見つめた。毎度のことなのにもやもやした気持ちだとなんだか名残惜しい。

「送ってくださってありがとうございます」

「おやすみ。また連絡する」

 白いセダンが去っていく。それを見ているとまた落ち込んだ。

 ────辰美さん、何を言おうとしてたんだろう。

 もしかして別れたいとか思っていないだろうか。六年前とは違う付き合い方になって、不満を抱いているのかもしれない。辰美には一度フラれているし、なんだか嫌な予感がした。


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