おじさんには恋なんて出来ない
 曲が終わり、周囲が拍手を鳴らした。辰美も慌てて拍手をした。

 ミヤの前には次々と人が並び始める。どうやらCDを売っているらしかった。

 ────いい演奏だったな。彼女の曲をもっと聞いてみたい。

 自然とそう思った。そして、列の後ろに加わった。

 ミヤは並んだ人達と話したり、CDにサインをしたりしていた。テレビでやっていたアイドルの握手会のような光景で、少し恥ずかしかった。

 だがミヤはアイドルではない。アイドルのように可愛らしい顔立ちだが、彼女はピアニストだ。と言い訳した。

 やがて、辰美の番が回って来た。

「こんにちは」

 ミヤは柔らかく微笑んだ。笑った顔も素敵な女性だ。

「あの、CDを頂けますか?」

「ありがとうございます。どれがいいですか?」

 CDはトランクケースの中に置かれていた。そこには小さなカードにCDのタイトルや値段などが簡単に書かれていた。

「さっき弾いていた曲はありますか?」

「あ、すみません。さっきのは即興なんです」

「え、即興ですか。すごいですね」

「いえ、そんなにすごいことじゃないんですよ」とミヤは謙遜した。

 音楽なんて中学校以来ご無沙汰の辰美からすればとんでもない才能の持ち主に思えたが、ピアノを弾く人間からすれば普通なのだろうか。だとしてもすごい。

「じゃあ、これ、全部いただけますか」

「えっ」

「とても素敵な演奏だったので」

 ミヤはありがとうございます。となんだか照れたように笑った。

 ストリートピアノを弾いているぐらいだから、もしかしたら駆け出しのアーティストなのかもしれない。だとしたら、CDを買ってもらえて嬉しいはずだ。

 善意で買ったわけではなかった。本当にミヤの演奏が素晴らしいと思ったのだ。それに、CDを数枚買うぐらいなんてことはない。CDはどれも一枚千円から高くても三千円ほどのものだった。全部買っても五千円ほどで足りる。

「ピアノがお好きなんですか?」ミヤが尋ねた。

「いえ、音楽はほとんど聞かなくて。でも、あなたの演奏は素晴らしいと思いました」

「そこまで褒めてもらえるとなんだかこそばゆいですね」

「実は、色々あって落ち込んでいたんです。でもなんだか元気が出て来ました。音楽はいいですね」

 ミヤは少し考えたような仕草を見せると、「あの」と伺ってきた。

「この後、よかったらもう一曲だけ聞いてくれませんか?」

「はい。大丈夫ですよ」

「ありがとうございます」

 サインの入ったCDを受け取り辰美は列を離れた。

 物販は終わったのか、ミヤは再びピアノの上に指を構えた。

 音が鳴り始めると、一人、一人とピアノの音に人々が足を止める。

 また聞いたことがない曲だった。これもミヤが即興で弾いたものなのだろうか。それにしては随分滑らかに躊躇なく弾いている。

 穏やかな曲調は、なんだか心があたたかくなるようで、どこか物悲しかった。こんな大勢がいる中で聞くから余計にだろうか。自分だけがここに一人り残されているような、そんな気分にさせた。

 その曲は五分程度の曲だった。だが、実際はそれより短く感じた。いつの間にか聞き入っていて、ハッと気付くと終わっていた。

 これも素晴らしい曲だ。先程買ったCDには入っているのだろうか。そんなことを考えていると、ミヤが電子ピアノに取り付けたマイクで喋った。

「今日もお疲れ様です。たくさんの人が元気になりますように」

 その後、ミヤと目が合った気がした。これはきっと、彼女が自分のために弾いてくれたのかもしれない。勘違いかもしれないが、そう思えた。

 電子ピアノの前には小さな箱が置いてあった。演奏を聞いていた人達がその中に何か投げていく。ははあ、投げ銭か、と思いながら辰美も財布を取り出し、箱に近づいた。

 いくらが相場なのか分からない。だが、先に入れた人々は小銭と千円札を入れていた。海外で言うところのチップのようなものだろうか。

 だが、あんな素晴らしい演奏を聴いて、数百円や一千円程度では申し訳ない気がした。

 財布から五千円を取り出し、箱の中に入れた。かなり大きい金額だが、そうしてもいいと思えた。コンサートならこれぐらいはする。ミヤの演奏はそれぐらいの価値があると思えた。

 ミヤは驚いた様子でペコリと頭を下げた。辰美も頭を下げた。

 その場から遠ざかり、カバンの中に入れたCDを覗き込むと幸せな気持ちになった。

 今まで仕事ばかりしていたが、音楽も悪くない。離婚は辛かったし嫌なことだが、こうしていろんなことにチャレンジする機会になった。そう思えば、案外悪いものでもないと思えた。
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