どこまでも
 今まで暮らしていたマンションは手放すことにした。現金に換えられるものはすべて明日美と花へ振り込んだ。優希にできることは、もうそれくらいしかない。明日美は受け入れてくれたが、花には一度も会えなかった。

 引っ越した先のワンルームマンションはまだ家具も入っておらず、ガランとしてとても静かだった。中古でもきれいで誰の色にも染まっていない。何もない。そう思った瞬間、驚くくらいの安堵が優希の全身を貫いた。

 縛るものは何もなく、嘘偽りのない自分が手に入れた自由。これからは好きなものを好きなようにしていい。一人ぼっちな今、誰にも迷惑をかけることはない。

 今まで覆っていた重たい膜がはがれていく清々しさに、優希は声をあげた。もう誰に遠慮することもなく、禄朗を好きでいられる。それは想像もしていなかった喜びだ。



 結婚すると決めてからも捨てられず、ずっとしまい込んでいた大切な宝箱を開ける。少しほこりっぽくなってしまった箱の中には、昔禄朗にもらった写真がたくさん入っている。何年ぶりの再会だろう。

 まだ若かった二人の部屋に飾られていた禄朗の視界の先の景色。二人のプライベートな姿。それらをもう隠さなくていい。

「禄朗……」

 どこで撮った写真だったとかその時のエピソードだとか、楽しそうに話してくれた姿を思い出しながら、一枚一枚壁に貼りつけた。

 これくらいは許してもらえるよな、と誰にともなく言い訳をして禄朗の見た景色に囲まれ暮らしていく。それだけでもたまらなく幸せだった。

 




 いくつも季節が移り替わり、代わり映えのしない毎日でも優希は生きている。自分だけの力で。自分だけの意思で。それは今まで感じたことのない充実感を伴った。

 日本での個展が成功だった禄朗は世界中のあちこちを飛び回り、今ではそれなりに名の知れた写真家として活躍しているようだった。ネットや雑誌や新聞記事の中にその名前を見つけるだけで嬉しくて、切り抜いては寄せ集めていく。今までにないくらい禄朗がそばにいた。

「じゃあなー。お疲れ様」
「お疲れさまでした!」

 同僚とあいさつを交わしながら帰路につこうとした優希に声がかかったのは、秋も深まった夕暮れのことだった。
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