ふたつ名の令嬢と龍の託宣

【第7話 もうひとつの託宣】

「今日もいい天気」
 部屋からテラスに出たルチアは、朝日に手をかざして目を細めた。爽やかな風が吹き、小鳥たちのさえずりが聞こえてくる。ここに来てから、もう五か月が経とうとしていた。

 しゃがみこんで鉢植えの土が乾いているのを確認してから、ルチアは先の細いじょうろで水をやった。
 膨らんだ茶色に水が沈んで、土が黒ずんでいく。しばらくすると下から水が溢れ出し、小さな川がゆっくりとテラスの床を進んでいった。

「母さん、綺麗に咲いたよ」
 鉢植えには赤い花が五つ六つと開いている。真ん中だけが黄色くなったプリムラの花だ。母アニサは、中でもこの赤いプリムラが好きだった。

 去年の冬、王都の街はずれにあるこんがり亭を訪ねてから、ルチアの生活は一変した。
 こんがり亭のダンとフィンは面倒見がよく、毎日あたたかい食事と寝床にありつけた。風呂にも好きなだけ入れたし、必死に働かなくてもよくなった。そして何よりも、アニサのそばにずっといられるようになった。

 そんなある日、アニサが入院していた王都の病院に、その男はやってきた。
 イグナーツと名乗った男は整った顔立ちをしていて、つり気味の瞳が一見冷たそうに見えた。だが、イグナーツはゆっくりとやさしくしゃべる男だった。

 古い知り合いらしく、ふたりはしばらくの間、病室でずっと話し込んでいた。ルチアは席を外すよう言われたので、ふたりが何を話していたのかはわからない。だが、初めは動揺した様子だったアニサは、イグナーツとの話が終わった後、明らかに安堵した顔になっていた。

『長いこと、よく、頑張りましたね』

 帰る間際にそう言って、イグナーツはアニサのやせ細った手を取った。あんなふうに母親がむせび泣く姿を、ルチアはその時初めて見た。

 その後イグナーツの提案で、アニサは病院を移ることになった。急なことに、世話になったダンとフィンに、直接お礼も別れも言うことができないままここに来てしまった。かろうじて置手紙だけ残してきたが、不義理をしたと、今でもそれだけが悔やまれる。
(でも、今いる場所を知られるのはまずいし……)

 アニサにもずっと言われていた。できるだけ早く手に職をつけて、イグナーツの元を離れるようにと。そして、独り立ちができたら、今まで同様、ひと所に留まらないようにと。

 ルチアはじょうろをテラスの片隅に置いて、部屋の中へと戻った。備え付けの洗面台で顔を洗う。春先の水はまだ冷たいが、こうするとすっきりと目が覚める。顔を拭きながら、ルチアは鏡に映る自分の姿をじっと見つめた。

 ――金色の瞳に見事な赤毛。

 それが自分だ。顔立ちはアニサに似ているが、その色彩は似ても似つかない。イグナーツが自分の父親ではと疑うこともあったが、瞳の色は似ているものの、彼は綺麗な銀髪だった。

 以前のようにこの赤毛を染めることはしなくなった。髪染めは洗うとすぐに落ちてしまう。毎日のように風呂に入れるようになった今では、この長い髪を毎回染めるのは面倒でしかない。
(母さんが何から逃げていたのかはわからないけど)

 ルチアはいまだアニサの言いつけを守って、常にかつらをかぶって過ごしている。ずっと母に言われ続けていたことは三つある。この赤毛を見られないように。体にあるあざを知られないように。そして、神殿には決して近づかないように。
(普通は神殿なんて、行きたくても行けない場所なのに……)
 神殿とは本来、貴族のみが利用するものだ。庶民は何かあったら、教会に行くのがあたりまえのことだった。

 長く伸びた髪を三つ編みにしてきつく編んでいく。二本のおさげを手早くまとめ、その上からルチアは茶色のかつらをかぶった。肩口で切りそろえられたこのかつらは、前髪が長くて鬱陶(うっとう)しい。アニサは自分のこの金色の瞳も、人目につくのを嫌がった。

 そのくせふたりきりでいるときに、綺麗な瞳だとアニサは口癖のように言っていた。
『鮮やかな赤毛と金色の瞳が、まるでプリムラの花のよう』
 そう言ってアニサは、いつも(まぶ)しそうにルチアを見た。
(母さん……)

 そのアニサも先月、ルチアを残して逝ってしまった。眠るような旅立ちだった。

 病院に入院して、呼吸も楽になった様子のアニサは、ずっと穏やかに過ごしていた。あたたかい部屋で、食べ物に困ることもなく、ゆっくりと体を休めることができた。ルチアもでき()る限りアニサのそばにいた。そうできたのは、すべてイグナーツのおかげだ。

 王都の病院で初めて会ったイグナーツは、ここに移ってからというもの、一度もその姿を見せることはなかった。ただ、アニサの葬儀の時にはふらりと現れ、短い時間だけ、ルチアのそばにいてくれた。

 今、寝泊まりしているのは学校の寮だ。この土地の領主は領民のために学校を建て、貧しい家の子供には無償で通わせているとルチアは聞いた。簡単な読み書きや計算から、専門職の特別な技能まで、それぞれの資質に合わせて学べるようにしてくれているらしい。
(いろんな土地に行ったけど、こんなやさしい領主様は初めてだわ)

 しかし、ルチアがいる寮は、裕福な家の子供が入るような特別なものだった。その中でも一等贅沢な個室がルチアにあてがわれ、おかげで部屋の中にいるときは、人の目を気にすることなく、気兼ねなく素顔をさらすことができている。

 イグナーツが用意してくれた環境は、ルチアにとって驚くことばかりだ。衣食住に困ることなく、日々憂いなく過ごすなど、ルチアの生きてきた中で一度も経験がなかった。
 それでも、アニサと懸命に生きてきたあの日々に戻れるなら。いまだにそう願ってしまう。母がいなくなってからは、学校に通って、この部屋に戻ってくるだけの毎日だ。
 学校で教えてくれる内容はどれも目新しく、それなりに楽しくは思える。だが、裕福な子女が通うコースに入れられて、ルチアはその環境にはなじむことができていない。

 ルチアはもう一度かつらの位置を確認すると、母の形見のロケットペンダントを首から下げた。中に龍が彫られた繊細な作りのものだ。
 ロケットを握りしめ、祈るように瞳を閉じる。今日は授業で貴族のお屋敷へ行かなくてはならない。行儀見習いとして、メイドの体験をするのが目的だった。

「母さん、わたしを見守っていて」

 呟いて、ルチアはその部屋を出た。

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