ふたつ名の令嬢と龍の託宣
【第15話 一輪の花】
「お手に触れてもかまいませんか?」
遠慮がちに声をかけると、ジークヴァルトは無言で両手を差し出してきた。隣り合わせに座った執務室のソファで、リーゼロッテはいつものように手を重ねる。
いまだによそよそしい態度をとってしまうものの、この『手当』だけは変わらず続けていた。だが以前は指を絡めて握っていたものが、上から添えるだけのものとなっている。触れるか触れないかのぎりぎりの距離を保ったまま、リーゼロッテは手のひらに力を流そうとした。
「――……っ!」
いきなり下から手を掴まれて、リーゼロッテは心臓を跳ねさせた。思わず伏せていた顔を上げてしまう。
握られた手が熱い。
青い瞳と目が合って、すぐさま不自然に視線を逸らした。
(わたしばっかり意識して馬鹿みたい……)
唇を小さく噛みしめ目をつぶる。心を落ち着かせるために長く細く息を吐いてから、ゆっくりと力を集めていった。
螺旋を描きながら腕を下り、緑の力は流れ出る。重ねた手に吸い込まれるように、そのまま消えて視えなくなった。
リーゼロッテはこの瞬間が好きだ。
その先でゆっくりと混ざり合って、緑と青はやがてひとつに溶けていく。まるで自分の一部がジークヴァルトになるようで、言い知れぬよろこびを感じてしまう。それと同時に、例えようのない虚しさがこの胸を占拠した。
こうして繰り返すごとに、力を制御するのが上達してきたと自分でも感じる。集まる力は無駄がなく、眠くなるぎりぎりの加減もわかってきた。今ならジークヴァルトを困らせることもそうないだろう。そんなふうに思える程度には力を扱えている。
(あ……力の流れが……)
ジークヴァルトの体の中で滞ったような場所を感じて、リーゼロッテは薄く瞳を開いた。左肩の付け根、あの日短剣を刺された場所だ。
傷を負ってから二か月近くは経つ。今ではジークヴァルトは以前と変わらない毎日を送っていた。
領地の執務に日々明け暮れて、週に数回は登城する。時折傷のあたりを気にするそぶりを見かけるというのに、早朝にはマテアスと激しい手合わせをしているらしかった。無理はしないでほしいとそれとなくエラから伝えてもらったが、委縮した筋肉を戻すためだと言われては、それ以上口を挿めるはずもない。
(ジークヴァルト様は絶えず異形に狙われているから……)
先日の騒ぎのように、取り憑かれた人間が襲ってくることもある。身を守るために鍛錬をおろそかにはできないのだと思うと、無力な自分がただひたすら歯がゆかった。
「あの、ジークヴァルト様」
「なんだ?」
伺うように顔を上げると、ずっと自分の顔を見ていたかのように青い瞳とぶつかった。思わずさっと目をそらしてしまう。いまだ両手を握られたまま、リーゼロッテは俯きながら口を開いた。
「肩に触れてもよろしいですか?」
「ああ」
即答されて、ジークヴァルトの座るソファの後ろへと回った。背後に立ち、傷のある場所にそっと両手を添える。座ったままでもやれることだが、真正面からこれ以上近づくなど、今のリーゼロッテにはできなかった。とてもではないが平静を保てそうにない。
(集中しないとうまくできないもの)
言い訳のようにそんなことを思い、瞳を閉じて手の内に意識を傾ける。
この傷が早く癒えるように。残る痛みが和らぐように。できるだけあたたかい光を。もっと、もっと、明るい光を――
「おい」
突然手を掴まれ制される。気づけば一心不乱に力を注ぎ込んでいた。体がふらつきソファの背に腕を伸ばす。触れる前に向こう側からすくい上げられ、抵抗する間もなく膝の上に乗せられてしまった。
「あまり無理はするな」
「申し訳ございません、わたくし……」
「いい、随分楽になった」
そう言いながらジークヴァルトは、リーゼロッテの顔にかかる横髪を耳にかけてきた。耳朶をなぞられ、一瞬で頬が朱に染まる。突っぱねるように距離をとろうとするも、背中を取られて逆に引き寄せられてしまった。
耳障りなほど心臓が打つ。その早鐘の音が伝わってしまいそうで、リーゼロッテは胸を庇うように身を縮こまらせた。
「つらいのか?」
「い、いえ、そういうわけでは……」
こんなふうに触れられて、今までどうして平気でいられたのだろうか。自分で自分が信じられない。動揺したように目を泳がせると、ジークヴァルトの眉間のしわが深くなった。
「部屋まで送る」
「いえ、直にエラが迎えに参ります。それまでに菓子をいただきますから、すぐに落ち着きますわ」
無理やりに膝から降りる。仏頂面のまま菓子に手を伸ばそうとしたジークヴァルトに、リーゼロッテは慌てて首を振った。
「自分で! きちんと自分で食べますから、ジークヴァルト様は気にせずお仕事をなさってくださいませ」
淑女らしからぬ素早い動作で菓子を口に放り込む。何かを言いたげにしつつも、ジークヴァルトは執務机に戻っていった。ほっと息をつき黙々と菓子を頬張った。
そんなリーゼロッテにマテアスが紅茶をサーブしてくる。やはりもの言いたげなその様子に、リーゼロッテは気づかないふりをした。
遠慮がちに声をかけると、ジークヴァルトは無言で両手を差し出してきた。隣り合わせに座った執務室のソファで、リーゼロッテはいつものように手を重ねる。
いまだによそよそしい態度をとってしまうものの、この『手当』だけは変わらず続けていた。だが以前は指を絡めて握っていたものが、上から添えるだけのものとなっている。触れるか触れないかのぎりぎりの距離を保ったまま、リーゼロッテは手のひらに力を流そうとした。
「――……っ!」
いきなり下から手を掴まれて、リーゼロッテは心臓を跳ねさせた。思わず伏せていた顔を上げてしまう。
握られた手が熱い。
青い瞳と目が合って、すぐさま不自然に視線を逸らした。
(わたしばっかり意識して馬鹿みたい……)
唇を小さく噛みしめ目をつぶる。心を落ち着かせるために長く細く息を吐いてから、ゆっくりと力を集めていった。
螺旋を描きながら腕を下り、緑の力は流れ出る。重ねた手に吸い込まれるように、そのまま消えて視えなくなった。
リーゼロッテはこの瞬間が好きだ。
その先でゆっくりと混ざり合って、緑と青はやがてひとつに溶けていく。まるで自分の一部がジークヴァルトになるようで、言い知れぬよろこびを感じてしまう。それと同時に、例えようのない虚しさがこの胸を占拠した。
こうして繰り返すごとに、力を制御するのが上達してきたと自分でも感じる。集まる力は無駄がなく、眠くなるぎりぎりの加減もわかってきた。今ならジークヴァルトを困らせることもそうないだろう。そんなふうに思える程度には力を扱えている。
(あ……力の流れが……)
ジークヴァルトの体の中で滞ったような場所を感じて、リーゼロッテは薄く瞳を開いた。左肩の付け根、あの日短剣を刺された場所だ。
傷を負ってから二か月近くは経つ。今ではジークヴァルトは以前と変わらない毎日を送っていた。
領地の執務に日々明け暮れて、週に数回は登城する。時折傷のあたりを気にするそぶりを見かけるというのに、早朝にはマテアスと激しい手合わせをしているらしかった。無理はしないでほしいとそれとなくエラから伝えてもらったが、委縮した筋肉を戻すためだと言われては、それ以上口を挿めるはずもない。
(ジークヴァルト様は絶えず異形に狙われているから……)
先日の騒ぎのように、取り憑かれた人間が襲ってくることもある。身を守るために鍛錬をおろそかにはできないのだと思うと、無力な自分がただひたすら歯がゆかった。
「あの、ジークヴァルト様」
「なんだ?」
伺うように顔を上げると、ずっと自分の顔を見ていたかのように青い瞳とぶつかった。思わずさっと目をそらしてしまう。いまだ両手を握られたまま、リーゼロッテは俯きながら口を開いた。
「肩に触れてもよろしいですか?」
「ああ」
即答されて、ジークヴァルトの座るソファの後ろへと回った。背後に立ち、傷のある場所にそっと両手を添える。座ったままでもやれることだが、真正面からこれ以上近づくなど、今のリーゼロッテにはできなかった。とてもではないが平静を保てそうにない。
(集中しないとうまくできないもの)
言い訳のようにそんなことを思い、瞳を閉じて手の内に意識を傾ける。
この傷が早く癒えるように。残る痛みが和らぐように。できるだけあたたかい光を。もっと、もっと、明るい光を――
「おい」
突然手を掴まれ制される。気づけば一心不乱に力を注ぎ込んでいた。体がふらつきソファの背に腕を伸ばす。触れる前に向こう側からすくい上げられ、抵抗する間もなく膝の上に乗せられてしまった。
「あまり無理はするな」
「申し訳ございません、わたくし……」
「いい、随分楽になった」
そう言いながらジークヴァルトは、リーゼロッテの顔にかかる横髪を耳にかけてきた。耳朶をなぞられ、一瞬で頬が朱に染まる。突っぱねるように距離をとろうとするも、背中を取られて逆に引き寄せられてしまった。
耳障りなほど心臓が打つ。その早鐘の音が伝わってしまいそうで、リーゼロッテは胸を庇うように身を縮こまらせた。
「つらいのか?」
「い、いえ、そういうわけでは……」
こんなふうに触れられて、今までどうして平気でいられたのだろうか。自分で自分が信じられない。動揺したように目を泳がせると、ジークヴァルトの眉間のしわが深くなった。
「部屋まで送る」
「いえ、直にエラが迎えに参ります。それまでに菓子をいただきますから、すぐに落ち着きますわ」
無理やりに膝から降りる。仏頂面のまま菓子に手を伸ばそうとしたジークヴァルトに、リーゼロッテは慌てて首を振った。
「自分で! きちんと自分で食べますから、ジークヴァルト様は気にせずお仕事をなさってくださいませ」
淑女らしからぬ素早い動作で菓子を口に放り込む。何かを言いたげにしつつも、ジークヴァルトは執務机に戻っていった。ほっと息をつき黙々と菓子を頬張った。
そんなリーゼロッテにマテアスが紅茶をサーブしてくる。やはりもの言いたげなその様子に、リーゼロッテは気づかないふりをした。