ふたつ名の令嬢と龍の託宣

【第16話 初夏の夜会】

「ハインリヒさまー、入りますよー」

 軽いノックの後、返事をする前に執務室の扉が開け放たれる。はじめは苦言を呈しもしたが、来客中、カイが勝手に入室してくることは決してない。
 無作法をするかしないかは、中にいる人間で判断されるのだ。そもそもいちばんに敬われて(しか)るべきはこの自分のはずだが、いちいち注意する気もとうに()せてしまった。カイを見やることもなく、ハインリヒはそのまま書類にペンを走らせた。

「今日はなんだ?」
「いえ、今夜デルプフェルト家で夜会が開かれるので、今日はこれでお(いとま)しようかと。昼前にはあっちに着かないとならないんです」
「ああ、もうそんな時期か」

 そこでようやくハインリヒは顔を上げた。
 各家で開かれる小規模な夜会は、いわば派閥の象徴だ。誰が呼ばれて、誰が呼ばれなかった。開催する家の力が強いほど、社交界では頻繁にそんな話題が上る。
 王家派の中でも公爵家に追随するほどと言われるデルプフェルト侯爵家だ。その夜会は中でも注目の的だった。

「面倒だけど、一度帰ってきますよ」

 肩をすくめて言うカイを少し心配そうに見やる。その視線に気づきつつも、カイはいつもの笑顔を返してきた。

「正直、こんな時だけ調子がいいって思いますけど、まあ、毎年のことなんで。それに今年は逆にこっちが利用させてもらうつもりですし」
「……本当に彼女を夜会に出すつもりなのか?」
「あれ? もしかしてハインリヒ様、ルチアのことでディートリヒ王に何か言われちゃいました?」
「いや、そういうわけではないのだが……」

 考え込むように指で机を叩く。新たに見つかった託宣を持つ少女を、カイはブルーメ子爵家の養子にしたいと申し出てきた。だが彼女はラウエンシュタイン公爵代理であるイグナーツに任せておけばいいと父王に言われたばかりだ。

 そこでハインリヒはイグナーツに直接コンタクトを取った。彼はブルーメ家の庶子から、ラウエンシュタイン公爵家に婿入りを果たした男だ。それも託宣を受けた身であったからこその話だが、そのイグナーツ経由で養子縁組を進めれば、王は何も言うまいという算段だった。

 手続きは拍子抜けするほどスムーズに行われた。表向きはイグナーツの進言でブルーメ家が養子縁組を願い出て、それを王が了承したという形だ。

「イグナーツ様が山に入る前でよかったです。この冬の積雪が例年以上で助かりました」
「……彼はリーゼロッテ嬢の父親とは思えない人物だったな」
「そうですか? 泣き上戸なところなんかそっくりですけど」

 カイの言葉にハインリヒが意外そうな顔をする。一度だけ呼びつけたイグナーツは、淡々と話す静かな印象の男だった。

「にしても、イグナーツ様がああもあっさりと了承するとはオレも思ってみませんでしたよ」
「それは同感だな」

 ハインリヒはイグナーツに半ば命令する形を取った。イグナーツは母親のアニータの願いで、ルチアを隠す手助けをした経緯がある。にもかかわらず、彼は養子縁組をふたつ返事で了承した。

「まあ、早くマルグリット様を探しに行きたくて、面倒ごとが嫌だったのかもしれませんけど」
「彼はマルグリット・ラウエンシュタインが、本当にまだ生きていると信じているのか?」
「なんでも気配を感じるんだそうです。いまだ貴族名鑑には、ラウエンシュタイン公爵としてマルグリット様の名前が載ってますし……()()()()になったとしても、貴族籍を残すのが国の慣習なんですかね?」

 カイの言葉にハインリヒは大きくため息をつく。

「悪いがそこら辺のところは何も教えられていない」
「すべては龍の思し召し、ですね」

 肩をすくめるカイにハインリヒはただ頷くしかなかった。王太子の身でありながら、知らされていないことがこの国には多くありすぎる。

「あと、夜会の件は勝手に決めてすみませんでした。ピッパ様が社交界に出る前に、ルチアの存在を当たり前にしておきたかったので」

 口を開きかけて、ハインリヒはそのままカイの顔をじっと見やった。

「ん? オレの顔に何かついてますか?」
「いや……ひとりの人間にお前がこんなにも執心するとはな」
「まあ、乗りかかった舟ですよ。王にもルチアを見届けるよう言われましたし」
「そうか」
「……今回は無理を聞いてくださって、ハインリヒ様には感謝しています」

 神妙に言ったカイを前に、思わず驚き顔になった。王に言われたにしても、損得勘定抜きで他人に労力を傾けるカイを、ハインリヒは今まで見たことがない。

「何なんですか、さっきから。オレだって礼くらい言いますよ」
「ああ、そうだな」

 本人に自覚がないのも珍しい。そう思ってハインリヒはひそやかに笑みを作った。

< 1,588 / 2,019 >

この作品をシェア

pagetop