ふたつ名の令嬢と龍の託宣

【第5話 王妃の夜会】

 女官のルイーズを先頭に、王妃の離宮から夜会の会場へと向かう。

 王城へと通じるこの渡り廊下は、イジドーラが公爵令嬢だったころから何度も行き来している場所だ。いずれ王妃の座をアンネマリーに譲れば、ここを通ることもなくなるのだろう。
 今日が見納めでもいいようにと、イジドーラは何気なく庭へと視線を向けた。

 庭木がさざめいた。そう思ったのも(つか)の間、来た廊下から何やら異音がした。後ろに続いていたふたりの女性騎士が、警戒するように振り返る。

「確認してまいります。王妃殿下はこちらでしばしお待ちを」

 騎士のひとりが音のした奥へと歩を進めた。残った騎士はイジドーラのそばに立ち、万一に備え(すき)のない視線を周囲へと向ける。
 その時、見に行った騎士から悲鳴が上がった。見やると廊下の奥から黒い異形が膨れ上がるように迫ってくる。

「異形の者が! 王妃殿下は先に王城へお向かいください! ルイーズ殿も早く!」

 イジドーラは力ある者ではないため、異形の姿を目視できない。王による厚い加護に守られ異形の影響も受けはしないが、異常事態に変わりはなかった。
 騎士が異形の前進を()き止めた。飲まれそうになりながらも、王妃を必死に逃がそうとする。

「王妃様、参りましょう」

 イジドーラの手を引き、ルイーズが廊下を足早に進む。この先でディートリヒ王が待っている。そこまでいけば屈強な騎士も控えているはずだ。

「イジドーラ王妃ぃ!」

 庭影から飛び出してきた何者かに、ルイーズが突き飛ばされた。やせ細ったその男は目だけが異様にぎょろりと輝き、まるで幽鬼のようにイジドーラの目には映った。

 男が腕を振り上げた。手にした短剣が鈍い光を放つ。その切っ先が自分の胸に突き立てられようとする様子を、イジドーラは背筋を伸ばしたまま目で追った。

「させるかよっ!」

 疾風(しっぷう)が生まれ、男の手首が横から乱暴に掴まれた。間に割って入ったカイは、短剣が手落とされると同時に、()ってそれを廊下の向こうへ遠ざける。

「イジドーラ様、お怪我は!?」
「問題ないわ」

 挨拶のように平然と返された言葉に、カイは安堵の表情を見せた。そのまま掴んだ腕をねじり上げ、男の背中にのしかかるようにして(ひざ)をつかせる。

「離せ! 離さぬか!」
「お前……ミヒャエル司祭(しさい)枢機卿(すうきけい)か?」

 変わり果てた姿に息をのむ。目の前に立つイジドーラに近づこうと、ミヒャエルは身をよじらせた。思いのほか強い抵抗に、カイはさらに重く膝を食い込ませる。
 その拍子にミヒャエルの(ふところ)から一本の横笛が転がり落ちた。それは半円の(いびつ)な軌道を(えが)き、イジドーラが立つ床の手前で動きを止めた。

 女性騎士ふたりがミヒャエルの横に立ち、両横からクロスするように細剣を喉元(のどもと)に突き付ける。冷たい刃に(おのの)いて、ミヒャエルは(あご)を上げ上体を必死に反らした。

「王妃殿下の命を狙うなど、死を覚悟してのことか?」

 カイが低い声で問う。この場でイジドーラを殺したところで、ミヒャエル自身もただで済むはずもない。

「王妃のせいでわたしはこの手を血に染めた。その(むく)いを受けさせたとして、それをお前は(あく)と言うのか」

 イジドーラの存在こそが、この身を奈落の底へと落とさせた。精霊たちに愛され清廉潔白だったあの頃に、もう戻ることなどできはしない。

「道連れにするも我が道理だ」

 (うめ)くように言って、ミヒャエルはイジドーラを睨み上げた。その視線をイジドーラは表情なく受け止める。(おび)えるでもなく、(さげす)むでもない。ましてや(あわれ)れみの欠片(かけら)さえも、その瞳には見いだせなかった。

 この女には何も届いていない。焼け付く思いも、失ってしまったものも、重ねてきた罪も何もかも。すべてお前のために、血肉を削り犠牲を払ってきたというのに――

 瞬間、ミヒャエルの内から憎悪が膨れ上がった。制御の効かない熱が右腕を支配して、(けが)れた(あか)がさらに奥へと毒を巡らせる。その邪悪な波動は抑え込む手にも伝わって、カイに苦悶(くもん)の色がにじみ出た。

「何事だ」

 低く重い声が響く。ゆっくりとした足取りで現れたディートリヒ王に、騒ぎに集まっていた者たちが一斉に膝をついた。ミヒャエルを取り押さえるカイとふたりの女性騎士だけが、王に顔を真っすぐ向ける。

「この者が王妃殿下のお命を狙うため、庭に潜んでおりました。王、どうぞ断罪を」

 カイが(よど)みなく迫る。王妃に刃を向けるなど、今すぐ切り捨てられてもおかしくはない由々しき事態だ。

 誰もが押し黙り、王の言葉を静かに待った。そんな中、この場にそぐわしくないほどのゆったりとした所作で、イジドーラは王の前で臣下の礼を取る。

「今宵はわたくしのための(うたげ)(もよお)される日。そのようなめでたき日を、血で(けが)すこと無きようお願い申し上げます」

 王から返答が得られないまま、イジドーラは両膝を地につけた。豪奢(ごうしゃ)なドレスが汚れるのも(いと)わずに、両手をそろえ王の立つ足元で平伏する。

「わたくしはこの者の吹く笛の()に、かつて心を救われたことがございます。王、どうかわたくしに免じて、この者に慈悲を――」

 イジドーラは(ひたい)を擦り付けんばかりに頭を下げた。その細い背を、ミヒャエルは真後ろでただ見つめていた。

 目の前でイジドーラが乞うている。この命を守るため、気高き身を伏してまで。

「あの笛が……わたしのものだと、貴女(あなた)は知っておられたのか……」

 抵抗を見せていた体から力が抜けた。その頬を熱き涙が静かに伝う。抜け殻になったように、ミヒャエルは呆然と王妃の背中を見続けた。

「すべてそなたの(のぞ)むままに」

 静かな声音で王は王妃の手を取った。優雅に立ち上がり、引かれるままその腕に身を預ける。

「その者の処遇は追って申し渡す。今宵は牢にて見張るがよい」

 次いで、人道的配慮と医師の手配を申し付けると、ディートリヒ王は王妃を連れて静かに歩き出した。


 一度も振り返ることなく遠ざかり、イジドーラの姿はやがて小さく見えなくなった。

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