ふたつ名の令嬢と龍の託宣
      ◇
 東宮での生活も随分と慣れてきた。朝早くにマンボウの鳴き声に起こされ、朝食前に庭を散歩する。これはリーゼロッテの日課となっていた。
 秋とはいえ、早朝は冷え込んでかなり寒い。だがこの時間はことさら空気が澄んでいて、とても気持ちがよかった。厚手のショールを羽織り、マンボウの姿を探して石畳を進んでいく。

「おはよう、マンボウ。今日も赤い鶏冠(とさか)がとてもステキよ」
「オエっ」

 うれしそうな返事が返ってくる。マンボウはとてもやさしい鶏だ。餌を撒かれてもほかの鶏たちに譲って、自分はあとから遠慮がちに食べ始める。そんな様子を何度も見た。

(この前の豹変ぶりは驚きだったわ……)

 先日のマルコへの猛攻は、もう人が、いや、鶏が変わったとしか思えなかった。猛々(たけだけ)しいあの姿は、東宮の門番と呼ばれるに相応(ふさわ)しい。そんな妙な感心の仕方を、リーゼロッテはしてしまった。

「おはよう、早いのね」
「おはようございます、クリスティーナ様」

 ヘッダを連れてやってきた王女に、慌てて礼を取る。庭で散歩をしていると、ごくまれに王女と鉢合わせすることがあった。なるべく邪魔をしないようにと時間をずらしているが、王女の散策の時間はまちまちだ。

(きっと体調が良い時をみて散歩しているのね)

「どう? ここでの生活も慣れてきたかしら?」
「はい、みな様がよくしてくださいますから、とても快適に過ごさせていただいております。それにマンボウに朝起こされるのにも慣れました」
「リーゼロッテが来てから、マンボウはいつも以上に張り切っているわね」

 その言葉にマンボウが、キリっとした顔を王女に向ける。時々人の言葉を理解しているように見えるから、マンボウは不思議な鶏だ。
 リーゼロッテに懐いてはいるものの、王女がいるとき、マンボウはこちらに目もくれない。ずっと可愛がっている人には敵わないのだろうが、それがちょっぴり悔しくもあった。

「マンボウはクリスティーナ様のことが本当に好きですね」
「そうね。もう十年は一緒に過ごしているわ」
「まあ、十年も! マンボウは結構なお年なのですね……」
「そう? 鶏などいくつまで生きるかなんて分からないわね。どう? ヘッダには分かる?」
「いえ、わたくしにもよくは……」

 王女はころころと笑った。彼女の笑い声はいつも涼やかだ。聞いていて耳に心地よい。

「そうよね、わたくしも鶏の寿命など考えたこともなかったわ。リーゼロッテ、あなた本当におもしろいわね。まあ、言っても人の寿命もあってないようなものだけれど」

 鶏たちに餌を撒く王女の後ろで、ヘッダが悲しそうな顔をした。次いでリーゼロッテを睨みつけてくる。

 コッコッコ、とたのしげな声だけが辺りに響く。リーゼロッテは何も言えずに、鶏たちが地面を啄む様子を黙って見続けた。

「ほら、マンボウもお食べなさい」

 遠巻きに見守っていたマンボウの地面に、小さな穀物が散らばっていく。そこでようやくマンボウも啄み始めた。お腹が空いていたのか、その姿は一心不乱だ。
 王女と会話ができる時間は滅多にない。いまだ鬼の形相のヘッダに委縮しつつも、リーゼロッテはやっとの思いで口を開いた。

「あの、クリスティーナ様……わたくしはいつまでここにいる事になるのでしょうか」
「……まだなんとも答えられないわ。でもきっと、そう長くは続かない」

 たのしげに餌を撒いていた王女の顔に、ふと影が降りる。歩き回る鶏たちを見ているのに、心はどこか遠くにいっているかのようだ。

 リーゼロッテの不安げな視線に気づいたのか、王女はやわらかい笑みを返してきた。

「でもその前に一度、公爵の元に帰してあげられるわ。白の夜会に出るのでしょう? それが終わったらまたすぐこちらに来てもらうけれど」
「夜会に参加してもよろしいのですか?」

 頷き返されて、リーゼロッテは瞳を輝かせた。ひと時でもジークヴァルトと一緒にいられる。それだけでふさぎ込む気持ちも吹き飛んだ。

「人の気も知らないで……」

 刺すような視線にはっと表情を改める。憎々し気な顔のまま、ヘッダがわなわなと唇を震わせていた。

「いいのよ、ヘッダ。大丈夫、まだ時は満ちていないわ」
「……はい、クリスティーナ様」

 泣きそうな声で答えると、ヘッダは唇をかんで押し黙ってしまった。

(時は満ちていない……?)

 王女は重大な何かを抱えている。それは伝わってくるのに、クリスティーナは自分にそれを教えるつもりはないように思えた。

(きっとわたしが口を(はさ)むことではないのよね……)
 言い聞かせるように瞳を伏せる。

 数日後、リーゼロッテは王女の言葉通りに、フーゲンベルク家へと一度帰されたのだった。


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