ふたつ名の令嬢と龍の託宣

【第8話 いたずらな吐息】

 二十歳の誕生日を目前にして、エラは崖っぷちに立たされていた。

(ああ! どうしてこんなに覚えることが多いの……!)

 目の前に積まれるのは分厚い書物の数々だ。その山にうずもれて、何冊も同時にページをめくりながら、大切な個所は羊皮紙にメモを取る。その作業をエラは一日中繰り返していた。

「焦っては駄目だわ。ちゃんと頭に入れないと」

 自分に言い聞かせながら、羽ペンを握りしめる。羊皮紙は安いものではない。インクをにじませないよう、慎重にペン先を滑らせた。

 エラが今やっているのは「準女官」の資格を取るための勉強だ。

 リーゼロッテはいきなり遥か東宮へと連れていかれてしまった。すぐにでも追いかけようとしたエラだったが、東宮に住まうは王族のひとり、しかも第一王女ときた。

 王族の居住区に世話係として、ただの侍女は足を踏み入れることは許されない。その資格を持つのは女官だけだ。招かれてその場に滞在することになった貴族の世話も、女官がするものと決まっていた。
 しかし女官に準ずる作法を身に着けた侍女は、準女官の資格を与えられる。王族の世話はできなくとも、滞在する貴族の世話だけは可能になるのだ。

(リーゼロッテお嬢様のために、なんとしても試験に合格しなくては……!)

 この試験は希望があればその都度実施してもらえるが、未婚の令嬢は受験資格が二十歳未満という縛りがあった。既婚者は制限がないらしいが、とにかく独り身のエラは、二十歳の誕生日を迎える前にこの試験に絶対に合格しなくてはならなかった。

(お嬢様はどんなに心細い思いをされていることか)

 ひとり(さら)われるように連れていかれたリーゼロッテを思うと、エラの心は千々(ちぢ)に引き裂かれそうだ。届いた手紙には元気でやっていると書かれていたが、やさしいリーゼロッテのことだ。いろいろと気を使って、きっと我慢をしていることだろう。
 一刻も早く試験を受けて、リーゼロッテの元に駆け付けたい。その一心で試験勉強に励んでいる。

 試験内容は後宮で身に着けるべきしきたりや作法がほとんどだった。長い歴史の中、形式的な手順を取る複雑な作法が多く、文字だけでは理解できないことも数多い。
 そんなこんなで公爵家の書庫に入り浸って、机にかじりつく日々を送っているエラだった。

「エラ様、あまり(こん)をお詰めにならない方が……。食事もろくにお取りにならないと、マテアスが心配しておりましたよ」

 やってきたのは公爵家の侍女長を務めるロミルダだ。マテアスの母である彼女は、侯爵令嬢から使用人になった変わり種である。

「そうは言っても時間がなくて……」
「ちゃんと栄養を取らないと、効率も上がらないというものですよ。昼食がてら一度休憩なさってください」
「……はい」

 渋々握っていた羽ペンをペン立てに戻す。

「それでエラ様、明日王城に行く用事がございまして、よろしければわたしと一緒に参りませんか?」
「王城にですか?」
「エラ様は以前、リーゼロッテ様と一緒に王城に滞在されていたと聞きました。そのとき世話になった人間に、準女官試験のことを聞いてみてはいかがでしょう?」

 エラは目を見開いた。確かにあのとき、王城勤めの者といろいろと交流していた。滞在したのは王族の居住区外の客間だったが、後宮の女官も時々手伝いにきてくれていた。

「行きます! ぜひ一緒に行かせてください!」

 試験内容や、理解できない箇所も質問できるかもしれない。前のめりで返事をしたエラに、ロミルダは頷いて笑顔を返した。

「実はこれはマテアスが言い出したことなのですよ」
「マテアスが?」
「あの子はエラ様のことが心配で仕方ないみたいで。……それはそうと、エーミール様とは最近問題はございませんか?」

 ロミルダにはエーミールとの間にあったことを、マテアス経由で打ち明けた。これも女性同士の方が相談しやすいだろうというマテアスの気づかいだ。

「はい……あれからは特に何もありません」

 時折視線を感じると、その先にエーミールがいることがある。しかしそれ以上のことは何もない日々が続いていた。

「エラ様はエーミール様をお(した)いしてらっしゃるのでしょう? マテアスの言うように、今一度お話し合いをなさってもよろしいのでは? もちろんその時はわたしも立ち会いますし」
「気持ちはうれしいですが、わたしはリーゼロッテお嬢様のために生きると決めました。それ以外の未来は考えられません」
「そうですか……。エラ様、差し出がましいとは分かっています。ですが、もうひとつだけ言わせてください」

 (かたく)ななエラに、やさしく(さと)すようにロミルダは続ける。

「貴族籍を抜けると、エーミール様は本当に手が届かない存在となってしまいます。でも今ならまだ間に合います。ですからそのことだけは、もう一度お考えになってほしいです」
「どうして……マテアスもロミルダも、そんなにわたしのことを気にかけてくれるのですか……?」

 エラの実家エデラー男爵家は、近々爵位を返上しようと考えている。手続きは進んでいると父親から聞いていた。そう何度も説明しているのに、どうしてだかマテアスは、エーミールと自分の仲を近づけようと進言してくる。

「わたしは侯爵家の出ですからね。貴族籍を抜けたあと、いろいろと苦労してきました。マテアスもその姿を見て育ってきたので、きっとそれで尚更(なおさら)エラ様が心配なのでしょう」

 友人だと思っていた人間のほとんどが、貴族でなくなった途端、手のひらを返したように態度を変えた。使用人など、人とも思っていない貴族も多い。その変貌(へんぼう)ぶりは目を見張るものがあった。
 その上、世間知らずな箱入り令嬢だったロミルダだ。いきなり使用人として生きていくのも、苦難と失敗の連続だったのは言うまでもない。

「それでもロミルダは後悔していないのですよね? 今の道を選んだことを」
「ええ、そうですね。わたしはエッカルトと共に生きることを自分で望みました。それを悔やんだことは一度もありません」

 エラの決意が固いことを受け止め、ロミルダはそれ以上、口を出さないことにした。もとはと言えば、マテアスの思いを()んで意見したことだ。

「昼食はエラ様のお部屋に用意させます。今はひとまずご休憩なさってください」

 書庫を出ていくエラを見送りながら、不器用な息子を思う。マテアスだってエラのことを好きだろうに、エーミールとの仲を取り持とうとするのは、彼女の未来を思ってのことだろう。

(わたしだったら、ちゃっかりエラ様を手に入れようとするけれど)

 エーミールのことなど忘れさせて、自分の手で全力でしあわせにすると思う。実際にエッカルトを誰にも()られたくなくて、ロミルダはそれ以外のすべてを捨てた。押して押して押しまくって、その結果エッカルトの妻の座を勝ち取ったのだ。

「変に(およ)(ごし)なところは、エッカルトに似たのかしらねぇ」

 もっともエラにその気がないのだから、マテアスが迫ってもフラれるのが落ちだろう。それが分かっているからこそ、何もできずにいるのかもしれない。

 マテアスは(じき)に公爵家の家令を継ぐ。そろそろ伴侶を決めないとならなかった。
 候補の相手は何人かいるが、なんにせよ早く孫の顔が見たいものだ。そんなこと思いつつ、ロミルダも書庫を後にした。

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