ふたつ名の令嬢と龍の託宣
「マンボウ、駄目よ! マルコ様、お早くこちらへ」
二階のテラスから、あの令嬢の声がした。手すりから身を乗り出して、マルコに向かって手招きをする。
建物の少し離れたところに生える大木を目指して、マルコは脇目もふらずにダッシュした。勢いのまま木の幹に跳びついて、枝に積もる雪を振り落としながら、上までするすると昇っていく。
太めの枝に移動して、座りがいいところでほっと息をついた。見下ろすと、悔しそうに鶏が地面をうろうろと歩き回っている。
あの日と同じ、枝とテラスの遠い距離感で、マルコは令嬢と目を合わせた。こちらの無事を確認したのか、令嬢は安堵の表情になる。
その瞬間、羽ばたきの音と共に、鶏がテラスの手すりへと飛んできた。すぐさまこちらに向き直り、令嬢を守るように翼を大きく広げて威嚇してきた。
「マンボウ、心配しなくても大丈夫よ。あの方はちゃんとした神官様だから」
安心させるように背を撫でると、マンボウと呼ばれた鶏はおとなしく羽を閉じた。だが太眉をキリリとさせて、眼光鋭くマルコを睨みつけてくる。
「マルコ様、ごきげんよう。今日はお怪我などなさっていませんか?」
「は、はいっ、リーゼロッテ様のおかげで、一直線に木に登れましたので」
「ならよかったですわ」
やわらかい笑みを向けられて、頬に熱が集まった。彼女は今まで会った誰よりも綺麗な女の人だ。恥ずかしくて思わず顔をそらしてしまう。
「今日もお供でいらっしゃったのですか?」
「はい……ボクはまだまだ半人前なので、やっぱり中には入れてもらえなくて……」
ここは第一王女が住まう場所だ。レミュリオが言うには青龍の加護が厚く、聖地のようなところであるらしい。だがマルコには神気などまったく感じ取れない。ただ白い悪魔が襲ってくる呪われた地なだけだ。
(あの鶏は王女様が可愛がっているそうだから……)
変にやり返して怪我を負わせることもできなくて、ただ逃げ回るしかないマルコだった。でなかったらとっくに絞めて、シチューの具材にしているところだ。と言っても神殿に籍を置いたマルコは、二度と肉を口にすることはないのだが。
そんなことを考えながら睨み返すと、怯えたように鶏は「オエッ」と令嬢にすり寄った。安全地帯では怯む理由は何もない。
「どうしたの? 走り回って疲れてしまった?」
労わるように白い手が鶏の背を撫でていく。あんなにやさしく触れられたら、さぞかし気持ちいいことだろう。見とれるようにその動きを目で追っていると、突然吹いた風がこの枝を大きく揺さぶった。
「ああっ」
「マルコ様……!」
慌てて伏せるように座る枝にしがみついた。しなりながら揺れる動きに目が回ってくるが、翻弄されるまま何もできない。令嬢は鶏を守るように抱きしめている。緩く編まれた三つ編みが風に踊って、この突風の強さが見て取れた。
ほどなくして吹き止んだ風に胸を撫でおろす。揺れがおさまるのを待って、やっとの思いで身を起こした。
「いたっ」
走った痛みに顔をしかめる。指先に小さな木片が刺さっていた。思わずそれを引き抜くと、ぷくりと膨れ出た血液が丸い玉を作った。
「マルコ様?」
気づかわしげな声を聞きながら、途端に冷や汗が吹き出した。
マルコの両親はクマに襲われ、この目の前で殺された。赤い血は否応なしにそのことを思い出させる。
限界まで達した赤い球体が、崩れて指を伝いそうになる。震えが止まらない指先を、マルコは咄嗟のように咥えこんだ。
(あの時と同じ味がする――)
襲われた瞬間が、今その場にいるかのように、目をつむった世界にありありと映し出される。振り上げられた毛むくじゃらの腕。まるで熟れた果実のように、父親の頭はそのひと振りで薙ぎ払われた。
「マルコ様……!」
ふわっとあたたかい風がマルコを包んだ。続けざま、しゅっ、しゅっとやさしい風は吹く。
涙のにじむ瞳で見上げると、令嬢が身を乗り出すようにこちらへと手を伸ばしていた。香水瓶を掲げ、その中身を再びひと吹きさせる。
(あったかい)
まるで春風のようだった。日いち日と陽が伸びて、草木が芽吹くよろこびの風だ。
「お怪我をなさったのですね? ああ、ここからでも届くかしら」
何度も押すうちに、瓶は空になったようだ。カスカスと鳴る音に、令嬢は慌てて中身を確かめた。
「あの、それは……?」
「こちらは、その、よく効く秘伝の傷薬ですわ。もっと近くで掛けて差し上げたいのだけれど……」
そう言われて指先に視線を落とす。さっきまであった深い刺し傷が、きれいさっぱり消えていた。
「いえ……ちゃんと届いたみたいです」
放心したように言う。信じられないが、痛みももうまるでない。口の中に残っている血の味も、なんだかほんのり甘く感じられた。
「まあ! それはよかったですわ」
「あの、そんな貴重なものを使わせてしまって、本当にすみませんでした」
貴族の使う秘伝の傷薬を、平民出の自分に使うなどあり得ない。後で金を要求されたとしても、今のマルコには支払うことはできないだろう。
「そんなことお気になさらないでくださいませ。すぐに手に入る物ですから、心配はご無用ですわ」
向けられた笑顔を、遥か遠い存在――まるで慈悲深い女神を見るかのように、マルコはぼんやりと眺めていた。彼女はきっと、理不尽な運命に打ちのめされたことなどないのだろう。裏表のない無垢な瞳が眩しくて、目を逸らしたいのに逸らすことができなかった。
「マルコさん、どこですか?」
遠くからレミュリオの声がする。はっと庭の向こうに視線をやった。
「すみません、ボクもう行かなくちゃ」
木を降りかけて、もう一度令嬢の顔を見る。
「今日もいろいろと助けてくださってありがとうございました」
深く頭を下げると、今度こそ木を降りた。二度とここには来てはいけない。なぜだかそんなふうに思った。
一度も振り返らずに、マルコはその場を走り去った。
二階のテラスから、あの令嬢の声がした。手すりから身を乗り出して、マルコに向かって手招きをする。
建物の少し離れたところに生える大木を目指して、マルコは脇目もふらずにダッシュした。勢いのまま木の幹に跳びついて、枝に積もる雪を振り落としながら、上までするすると昇っていく。
太めの枝に移動して、座りがいいところでほっと息をついた。見下ろすと、悔しそうに鶏が地面をうろうろと歩き回っている。
あの日と同じ、枝とテラスの遠い距離感で、マルコは令嬢と目を合わせた。こちらの無事を確認したのか、令嬢は安堵の表情になる。
その瞬間、羽ばたきの音と共に、鶏がテラスの手すりへと飛んできた。すぐさまこちらに向き直り、令嬢を守るように翼を大きく広げて威嚇してきた。
「マンボウ、心配しなくても大丈夫よ。あの方はちゃんとした神官様だから」
安心させるように背を撫でると、マンボウと呼ばれた鶏はおとなしく羽を閉じた。だが太眉をキリリとさせて、眼光鋭くマルコを睨みつけてくる。
「マルコ様、ごきげんよう。今日はお怪我などなさっていませんか?」
「は、はいっ、リーゼロッテ様のおかげで、一直線に木に登れましたので」
「ならよかったですわ」
やわらかい笑みを向けられて、頬に熱が集まった。彼女は今まで会った誰よりも綺麗な女の人だ。恥ずかしくて思わず顔をそらしてしまう。
「今日もお供でいらっしゃったのですか?」
「はい……ボクはまだまだ半人前なので、やっぱり中には入れてもらえなくて……」
ここは第一王女が住まう場所だ。レミュリオが言うには青龍の加護が厚く、聖地のようなところであるらしい。だがマルコには神気などまったく感じ取れない。ただ白い悪魔が襲ってくる呪われた地なだけだ。
(あの鶏は王女様が可愛がっているそうだから……)
変にやり返して怪我を負わせることもできなくて、ただ逃げ回るしかないマルコだった。でなかったらとっくに絞めて、シチューの具材にしているところだ。と言っても神殿に籍を置いたマルコは、二度と肉を口にすることはないのだが。
そんなことを考えながら睨み返すと、怯えたように鶏は「オエッ」と令嬢にすり寄った。安全地帯では怯む理由は何もない。
「どうしたの? 走り回って疲れてしまった?」
労わるように白い手が鶏の背を撫でていく。あんなにやさしく触れられたら、さぞかし気持ちいいことだろう。見とれるようにその動きを目で追っていると、突然吹いた風がこの枝を大きく揺さぶった。
「ああっ」
「マルコ様……!」
慌てて伏せるように座る枝にしがみついた。しなりながら揺れる動きに目が回ってくるが、翻弄されるまま何もできない。令嬢は鶏を守るように抱きしめている。緩く編まれた三つ編みが風に踊って、この突風の強さが見て取れた。
ほどなくして吹き止んだ風に胸を撫でおろす。揺れがおさまるのを待って、やっとの思いで身を起こした。
「いたっ」
走った痛みに顔をしかめる。指先に小さな木片が刺さっていた。思わずそれを引き抜くと、ぷくりと膨れ出た血液が丸い玉を作った。
「マルコ様?」
気づかわしげな声を聞きながら、途端に冷や汗が吹き出した。
マルコの両親はクマに襲われ、この目の前で殺された。赤い血は否応なしにそのことを思い出させる。
限界まで達した赤い球体が、崩れて指を伝いそうになる。震えが止まらない指先を、マルコは咄嗟のように咥えこんだ。
(あの時と同じ味がする――)
襲われた瞬間が、今その場にいるかのように、目をつむった世界にありありと映し出される。振り上げられた毛むくじゃらの腕。まるで熟れた果実のように、父親の頭はそのひと振りで薙ぎ払われた。
「マルコ様……!」
ふわっとあたたかい風がマルコを包んだ。続けざま、しゅっ、しゅっとやさしい風は吹く。
涙のにじむ瞳で見上げると、令嬢が身を乗り出すようにこちらへと手を伸ばしていた。香水瓶を掲げ、その中身を再びひと吹きさせる。
(あったかい)
まるで春風のようだった。日いち日と陽が伸びて、草木が芽吹くよろこびの風だ。
「お怪我をなさったのですね? ああ、ここからでも届くかしら」
何度も押すうちに、瓶は空になったようだ。カスカスと鳴る音に、令嬢は慌てて中身を確かめた。
「あの、それは……?」
「こちらは、その、よく効く秘伝の傷薬ですわ。もっと近くで掛けて差し上げたいのだけれど……」
そう言われて指先に視線を落とす。さっきまであった深い刺し傷が、きれいさっぱり消えていた。
「いえ……ちゃんと届いたみたいです」
放心したように言う。信じられないが、痛みももうまるでない。口の中に残っている血の味も、なんだかほんのり甘く感じられた。
「まあ! それはよかったですわ」
「あの、そんな貴重なものを使わせてしまって、本当にすみませんでした」
貴族の使う秘伝の傷薬を、平民出の自分に使うなどあり得ない。後で金を要求されたとしても、今のマルコには支払うことはできないだろう。
「そんなことお気になさらないでくださいませ。すぐに手に入る物ですから、心配はご無用ですわ」
向けられた笑顔を、遥か遠い存在――まるで慈悲深い女神を見るかのように、マルコはぼんやりと眺めていた。彼女はきっと、理不尽な運命に打ちのめされたことなどないのだろう。裏表のない無垢な瞳が眩しくて、目を逸らしたいのに逸らすことができなかった。
「マルコさん、どこですか?」
遠くからレミュリオの声がする。はっと庭の向こうに視線をやった。
「すみません、ボクもう行かなくちゃ」
木を降りかけて、もう一度令嬢の顔を見る。
「今日もいろいろと助けてくださってありがとうございました」
深く頭を下げると、今度こそ木を降りた。二度とここには来てはいけない。なぜだかそんなふうに思った。
一度も振り返らずに、マルコはその場を走り去った。