ふたつ名の令嬢と龍の託宣

【第15話 愛おしい日々】

「ミヒャエル司祭(しさい)枢機卿(すうきけい)が?」
「はい、王位継承の儀が行われた日に、牢の中で自害したそうです。表向きは病死ということで処理されましたが」
「……そう」

 カイの報告を受けて、イジドーラは言葉少なく窓の外を眺めた。

 王妃の座を退いて、今はディートリヒと共にこの後宮で過ごしている。肩の荷が下りたと言うのが正直なところだ。
 だが不慣れなアンネマリーをサポートする役目はしばらく必要だ。身ごもっている彼女の代わりに、公務に(おもむ)くことも出てくるだろう。

 まだここに自分の居場所はある。この胸にハインリヒの子を抱くまでは――。

「イジドーラ様はどうしてあの時、司祭枢機卿を(かば)ったんですか?」

 思考を(さえぎ)るようにカイが問うてくる。イジドーラがあそこまでして助けた命だ。しかもミヒャエルの死は、恩赦(おんしゃ)で罪が軽減されることが決まった矢先の出来事だった。不満を含ませたその言葉に、イジドーラは静かにカイを振り返った。

「言ったでしょう? わたくしはあの者の吹く笛に救われたことがあると」

 カイもあの()を一緒に聞いていたはずだ。もっとも当時のカイはまだ幼かった。覚えていなかったとしても無理ないことだろう。

 生家ザイデル公爵家の謀反(むほん)。セレスティーヌの死。先の見えない幽閉の日々の中、次々と起こる悲劇を前に、イジドーラはなす(すべ)もなかった。

 ――もういっそ自ら命を断ち切ろう

 反逆者として死刑を迫られて、短剣をこの手に握りしめた。生きることすべてを諦めようとした時、ふいに三日月の空に響いてきたのがあの笛だった。セレスティーヌと過ごしたしあわせな日々が、瞬時にイジドーラの内に蘇る。

 はじめて彼女に目通りした日、なんと美しく気高いひとかと衝撃を受けた。セレスティーヌが亡くなるその日まで、何度も(かよ)った王妃の離宮。王城から続く長い廊下の庭からも、よくあの笛の音が聞こえてきた。

 離宮の奥庭のガゼボで本を読みふけっているときも、時折その旋律はこの耳に届けられていた。その笛は若い神官が奏でていることを、イジドーラはそのガゼボで盗み見た。その時の神官がミヒャエルなのだと気づいたのは、王妃となって随分と経ってからのことだ。

 あの笛は満たされていた日々の象徴だった。胸を締めつける旋律は、イジドーラの記憶(とき)をたやすく巻き戻す。

 細い月を見上げ、セレスティーヌが(のこ)した言葉を思い出した。最期(さいご)に交わした大切な約束だ。それをどうして忘れてしまっていたのだろうか。
 自分にはまだやらねばならないことがある。それはイジドーラが生きる理由を思い出した瞬間だった。

 思えば、幼かったカイをも見捨てようとしていた。狂った姉に傷つけられ、味方すらなくどこにも行き場のなかった(おい)だ。
 そのカイを置いて自死を選ぼうものなら、血を流し続ける傷がさらに深まるのは当然のこと。己のしようとしていたことの愚かさに、今さらながらイジドーラは気づかされた。

「カイ、こちらにいらっしゃい」

 あの頃は、なぜ姉があんなにもカイを拒絶するのか、イジドーラにはまるで理解できなかった。その理由を王妃になった時に知り、同時に自分の無力さも知った。

 素直に近づいてきたカイを抱きしめる。姉ゆずりの灰色の髪を、幼子にするようにやさしく撫でていく。

「今までハインリヒのため、よく尽くしてくれたわね。これからはカイ、あなた自身のために生きるといいわ。わたくしができることはなんでもしてあげるから」
「……うれしいお言葉ですが、今イジドーラ様にしていただきたいことと言えば、すぐにでもこの手を離してほしいということなんですが……」

 なぜか身を強張(こわば)らせているカイの視線の先を見やると、そこにはディートリヒがいた。かなり不機嫌そうにカイを睨んでいる。

「ディートリヒ様。お戻りになられていたのですね」
「イジィに会いたくてすぐに済ませてきた」
「まぁ、お(たわむ)れを」

 カイから離れると、ディートリヒが即座に手を引いてくる。それを呆れたように見やり、カイはさらに一歩下がって大げさに礼を取った。

「では邪魔者は退散させていただきます」
「またいつでも顔を見せに来るといいわ」
「いや、用がなければ来なくていい」

 イジドーラを強く抱き込んで、ディートリヒが間髪入れずに言う。ますます呆れたような顔をして、カイは深々と(こうべ)()れた。

「もうひとり、見つかっていない託宣者がおりますので、その手掛かりを見つけた時にでもまた参ります」
「あら、それではいつになるか分からないじゃない。いいわ、今まで通り定期報告なさい」
「仰せのままに、イジドーラ様」
「報告は書類にまとめて来い。そして最短で帰れ」
「まぁ、ディートリヒ様、随分とおもしろいことを」
「いや、それ絶対に本気(マジ)ですって」

 カイが小声で突っ込むと、すかさずディートリヒが睨みつけてくる。

「ああ、もう……今すぐ御前失礼いたしますから、そんなに怒らないでくださいよ」

 やれやれといったふうにカイが部屋を辞していく。その背を見送るや(いな)やディートリヒが口づけてきた。

「イジィはオレのものだ。誰にも渡さん」
「どうなさったのです? 先ほどからお戯ればかり。それにあの大仰(おおぎょう)なしゃべり方は、もうおやめになったのですか?」
「ああ。威厳ある王らしくて、オレもなかなか(さま)になっていただろう? だがもう必要ない。それともイジィはあの方がお気に入りか?」
「いえ、王太子でいらした頃のディートリヒ様に戻ったようで、とても懐かしいですわ」

 王位を継ぐ前の奔放なディートリヒを思い出し、イジドーラは遠くを思うように目を細めた。

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