ふたつ名の令嬢と龍の託宣
【第16話 宿命の王女】
破鐘のような大勢の話し声が、頭にわんわんと反響する。
豪奢な椅子に座り片肘をついたまま、ハインリヒは眉間に指を押し当てていた。
それとは別に、広い評議場では不毛な討論が続けられている。双方の言い分がぶつかり合い、平行線をたどるのはいつものことだ。
王太子時代はいちいちそれを吟味し、自分なりの意見を述べてみたりもしたが、王となった今ではそんな些事に構う余裕もなかった。
そもそも会話が耳に届かない。聞こえてくるのは頭の中をうるさく響く、歴代の王のしゃべり声だけだ。
――議会など中身はない。宰相にすべて任せておけ
――わしらの声がつらかろう? ほれ、王妃の元へ行くがいい
――何、これもすぐ慣れる
――いや、我慢すると碌なことはないぞ。意地を張って倒れた馬鹿が幾人もおる
――今度の王妃はなかなかの体じゃな
――そうだそうだ、あれに触れぬ手はないぞ
「やかましいっ!」
突然、怒声を上げたハインリヒに、評議場が静寂に包まれる。エキサイトしていた者も、一気に青ざめその口を貝のように閉ざした。
「いやはや、王を始め、みな様も少々お疲れのご様子。ここらで半時ほど休憩を入れましょう」
ニコニコ顔のブラル宰相の声に、真っ先にハインリヒが席を立つ。
「時間が来たら先に進めておいてくれ」
「仰せのままに、ハインリヒ王」
宰相に小声でそう言い残し、ハインリヒは評議場を後にする。その途端に貴族たちが、詰めていた息を一斉に吐き出した。
「王位を継がれてから、ハインリヒ様は随分と変わられた」
「若い王に憂える者も多かったが、威厳ある王になられたな」
「いや、これは青龍の加護と聞く。新王の御代も安泰だ」
歴代の王たちはみな一夜にして、人格が入れ代わる。老いた貴族の言うことに半信半疑だった者たちも、それを目の当たりにすれば素直に頷かざるを得ない。
龍の本質を知らない者すら、畏怖の念を抱くほどだ。生き証人たちによって語り継がれ、この国の王は長きに渡り、多くの貴族を統べてきた。
そんな貴族たちを残し、ハインリヒは急ぎアンネマリーの元に向かった。早くそばへと行きたい。ずっとこの手で触れていたい。
――そうじゃ、急げ、急げ!
――王妃は我らが宝だ、大切にせよ!
はやし立てるように王たちが騒ぐ。ハインリヒが継いだのは、単にこの国の歴史だけではなかった。経験と叡智がつまった、歴代の王たちの記憶そのものだ。
(何が叡智なものか)
そう毒づいた瞬間、王たちから愉快そうな笑い声が上がった。ハインリヒは四十五代目の王だ。自分以外の四十四人分の記憶が、縦横無尽に騒ぎまわる異常事態が、この頭の中で今まさに起こっている。
その中でもよくしゃべる王は決まっているようで、だんだん区別がついてくるのも何だか腹立たしい。
(そういえば、父上とお爺様の声は聞こえてこないな……)
――それは我らが満場一致で決めたこと
――親父や爺様の小言など、お主も聞きたくないであろう?
思っただけでもすぐ言葉が返ってくる。日常、周囲との会話もままならなくて、議会でも、貴族との謁見の場でも、ハインリヒはひたすらその場をやり過ごすしかなかった。
思えばディートリヒも議会の間、じっと瞳を閉じていた。王として怠慢にもほどがある。その態度にそんな憤りをずっと感じていたが、こんな状況ではそうするなという方が無理な話だ。
(むしろこれでよく父上は政務を続けられたな)
――父は偉大じゃ!
――ついでに我らも敬え!
再び爆笑に包まれて、ハインリヒは逃げるようにアンネマリーの待つ自室へと駆け込んだ。
「ハインリヒ」
「いいよ、君はそのまま座っていて」
その笑顔を見てほっとする。
「調子はどう?」
「変わりはありませんわ」
王たちのはやし立てる声を聞きながら、その横に陣取った。
「わたくしは大丈夫ですから、あまりご無理はなさいませんよう」
「ありがとう。でもわたしが大丈夫ではないんだ」
アンネマリーに触れているときだけ、王たちの声が嘘のように遠のいた。この苦痛から逃れたくて、日に何度もここへと戻ってしまう。情けない王だと言われても、こればかりはもう自分ではどうしようもなかった。
遠慮はいらないと助言をしてくる王の声を無視して、アンネマリーをぎゅっと腕に抱きしめる。ふわりといい香りが漂って、途端にすべてが静けさを取り戻した。
「……落ち着くな」
耳元で言うと、アンネマリーの手がやさしく背を撫でてきた。ずっとこうされていたいと本気で思う。そうすればあのやかましい声は、永遠に聞こえてこないのだから。
「王、そろそろお時間です」
無慈悲な言葉に、仕方なく立ち上がる。
「また時間ができたら戻ってくるから。アンネマリーはゆっくり休んでいて」
名残惜しく額に口づけて、耳にうるさい声に顔をしかめつつ、ハインリヒは評議場へとしぶしぶ戻っていった。
豪奢な椅子に座り片肘をついたまま、ハインリヒは眉間に指を押し当てていた。
それとは別に、広い評議場では不毛な討論が続けられている。双方の言い分がぶつかり合い、平行線をたどるのはいつものことだ。
王太子時代はいちいちそれを吟味し、自分なりの意見を述べてみたりもしたが、王となった今ではそんな些事に構う余裕もなかった。
そもそも会話が耳に届かない。聞こえてくるのは頭の中をうるさく響く、歴代の王のしゃべり声だけだ。
――議会など中身はない。宰相にすべて任せておけ
――わしらの声がつらかろう? ほれ、王妃の元へ行くがいい
――何、これもすぐ慣れる
――いや、我慢すると碌なことはないぞ。意地を張って倒れた馬鹿が幾人もおる
――今度の王妃はなかなかの体じゃな
――そうだそうだ、あれに触れぬ手はないぞ
「やかましいっ!」
突然、怒声を上げたハインリヒに、評議場が静寂に包まれる。エキサイトしていた者も、一気に青ざめその口を貝のように閉ざした。
「いやはや、王を始め、みな様も少々お疲れのご様子。ここらで半時ほど休憩を入れましょう」
ニコニコ顔のブラル宰相の声に、真っ先にハインリヒが席を立つ。
「時間が来たら先に進めておいてくれ」
「仰せのままに、ハインリヒ王」
宰相に小声でそう言い残し、ハインリヒは評議場を後にする。その途端に貴族たちが、詰めていた息を一斉に吐き出した。
「王位を継がれてから、ハインリヒ様は随分と変わられた」
「若い王に憂える者も多かったが、威厳ある王になられたな」
「いや、これは青龍の加護と聞く。新王の御代も安泰だ」
歴代の王たちはみな一夜にして、人格が入れ代わる。老いた貴族の言うことに半信半疑だった者たちも、それを目の当たりにすれば素直に頷かざるを得ない。
龍の本質を知らない者すら、畏怖の念を抱くほどだ。生き証人たちによって語り継がれ、この国の王は長きに渡り、多くの貴族を統べてきた。
そんな貴族たちを残し、ハインリヒは急ぎアンネマリーの元に向かった。早くそばへと行きたい。ずっとこの手で触れていたい。
――そうじゃ、急げ、急げ!
――王妃は我らが宝だ、大切にせよ!
はやし立てるように王たちが騒ぐ。ハインリヒが継いだのは、単にこの国の歴史だけではなかった。経験と叡智がつまった、歴代の王たちの記憶そのものだ。
(何が叡智なものか)
そう毒づいた瞬間、王たちから愉快そうな笑い声が上がった。ハインリヒは四十五代目の王だ。自分以外の四十四人分の記憶が、縦横無尽に騒ぎまわる異常事態が、この頭の中で今まさに起こっている。
その中でもよくしゃべる王は決まっているようで、だんだん区別がついてくるのも何だか腹立たしい。
(そういえば、父上とお爺様の声は聞こえてこないな……)
――それは我らが満場一致で決めたこと
――親父や爺様の小言など、お主も聞きたくないであろう?
思っただけでもすぐ言葉が返ってくる。日常、周囲との会話もままならなくて、議会でも、貴族との謁見の場でも、ハインリヒはひたすらその場をやり過ごすしかなかった。
思えばディートリヒも議会の間、じっと瞳を閉じていた。王として怠慢にもほどがある。その態度にそんな憤りをずっと感じていたが、こんな状況ではそうするなという方が無理な話だ。
(むしろこれでよく父上は政務を続けられたな)
――父は偉大じゃ!
――ついでに我らも敬え!
再び爆笑に包まれて、ハインリヒは逃げるようにアンネマリーの待つ自室へと駆け込んだ。
「ハインリヒ」
「いいよ、君はそのまま座っていて」
その笑顔を見てほっとする。
「調子はどう?」
「変わりはありませんわ」
王たちのはやし立てる声を聞きながら、その横に陣取った。
「わたくしは大丈夫ですから、あまりご無理はなさいませんよう」
「ありがとう。でもわたしが大丈夫ではないんだ」
アンネマリーに触れているときだけ、王たちの声が嘘のように遠のいた。この苦痛から逃れたくて、日に何度もここへと戻ってしまう。情けない王だと言われても、こればかりはもう自分ではどうしようもなかった。
遠慮はいらないと助言をしてくる王の声を無視して、アンネマリーをぎゅっと腕に抱きしめる。ふわりといい香りが漂って、途端にすべてが静けさを取り戻した。
「……落ち着くな」
耳元で言うと、アンネマリーの手がやさしく背を撫でてきた。ずっとこうされていたいと本気で思う。そうすればあのやかましい声は、永遠に聞こえてこないのだから。
「王、そろそろお時間です」
無慈悲な言葉に、仕方なく立ち上がる。
「また時間ができたら戻ってくるから。アンネマリーはゆっくり休んでいて」
名残惜しく額に口づけて、耳にうるさい声に顔をしかめつつ、ハインリヒは評議場へとしぶしぶ戻っていった。