ふたつ名の令嬢と龍の託宣
【第22話 青龍の紋】
暗く、静まり返った部屋の片隅で身を潜めた。
寝台にはアルフレート二世をそれらしく寝かせてある。チャンスがあるとしたら、相手が油断しているはじめだけだ。一瞬の隙をついて、部屋を飛び出すしかないだろう。
ベッティはあのあと、具合が悪いまま神官に連れられて行った。解毒剤のない媚薬は、体から抜けるのを待つしかないらしい。それでもちゃんと手当はしてもらえるだろうか。息遣いも荒くふらふらになったベッティは、ものすごく苦しそうだった。
(毒に強いベッティですら、あんなになってしまうなんて……)
慣れない自分が口にしていたら、今頃どんなことになっていたのか。想像するだけで身震いが起きた。媚薬が効いているはずのリーゼロッテに、今夜、黒幕は会いに来るというのだから。
(大丈夫……わたしはヴァルト様の託宣の相手だもの……きっとちゃんと切り抜けられる)
震える指で胸の守り石を握りしめた。青の波動を感じながら、ひとりじゃないと言い聞かせる。
耳を澄ませても何も聞こえてこない。廊下の足音はいつも大きく響くので、人が来たらすぐに分かるはずだ。やたらと時間が長く感じられて、自分の鼓動だけが耳についた。
このまま誰も来ないのでは。そんな考えが浮かんでくるも、希望は儚く闇の中に溶けこんだ。
ふいに暗がりだった部屋の一角が、青銀色に仄かに光る。夜目が効いているリーゼロッテには、それが扉の辺りだとすぐに分かった。
蝶番を軋ませて、ゆっくりと扉が開いていく。鍵が回される音はしなかった。廊下を歩いてくる足音も。
誰かが入ってくる気配を感じながら、リーゼロッテは必死に息を詰めた。相手が寝台に気を取られているうちに、扉に向かって駆けだそう。だからそれまでは気取られては駄目だ。
しかし人影は寝台には目もくれなかった。迷いなくこちらに向かってくる衣擦れの音に、縮こまらせた体がカタカタと震えた。
「おや? 報告とは少し違う状況のようですね」
場にそぐわない穏やかな声がしたとき、月明かりが窓から差し込んだ。白く浮き出した神官服の男に、リーゼロッテは息を飲む。
「あなたは……」
部屋の片隅でしゃがみこんだまま、美しい顔立ちの男を見上げた。いつか会った神官だ。このまなざしを向けられる不快感を、リーゼロッテはよく覚えている。
「ご記憶いただけているようですね。リーゼロッテ・ラウエンシュタイン」
「……わたくしはリーゼロッテ・ダーミッシュですわ」
「貴族の決めた籍に、意味などありません。貴女は紛れもなく星読みの末裔だ」
そこで言葉を切ると、男は口元に笑みを刷いた。確か盲目の神官だった。なのに、こんなにも刺すような視線を感じるのはなぜなのか。
震えを止められないまま、決死の思いで立ち上がった。このまま相手の好きになどさせてなるものか。
「わたくしをこんなところに閉じ込めて、一体どういうおつもりですか? 神官と言えど捕まれば公平に裁かれます。このまま逃げ切れるなど甘い考えですわ」
「さて、それはどうでしょう。わたしは選ばれた人間。いえ、まさに選ぶ側――青龍そのものと言ってもいい」
「何を馬鹿げたことを」
「信じられないのは仕方のないことですが、いずれ貴女にも理解できましょう」
「理解などさせるつもりはないくせに……!」
恐怖を押し殺して、リーゼロッテは男を睨み上げた。
「あなたのしていることは犯罪です。神職に身を置く立場でありながら、わたくしにあんな薬を盛るだなんて……! 気が触れているとしか思えませんわ」
「それは心外ですね。初めての貴女でも楽しめるようにと、わたしなりの配慮だったのですが」
「ふざけないで……!」
怒りのあまり声が震えた。だが常識が通用する相手ではない。冷静な男の物言いが、得体の知れなさを余計に膨れ上がらせる。
「ふざけてなどいませんよ。貴女ほどわたしの花嫁に相応しい者はいない」
「誰があなたの花嫁になどなるものですか。わたくしはジークヴァルト様の託宣の相手です。それは龍がお決めになったこと。誰にも覆すことはできませんわ」
「ああ、そんなことを憂いていたのですか。貴女が今ここでわたしに抱かれようと、何も問題はありません。例え純潔でなくなったとしても、託宣に支障など出ないのですから。ですがそうですね……龍の盾の彼には、時期が来たら貴女を貸し出すことにしましょうか。その時に心置きなく託宣の子をもうければいい」
「本気でそんなことをおっしゃっているのですか……?」
目の前に立つ男が何を言っているのか、まるで理解ができない。とてもではないが正気の沙汰とは思えなかった。
「こんな馬鹿げたこと、龍がお許しになるはずはありません」
「老いぼれた龍の言うことなど、わたしには何の意味も持ちませんね。それに貴女とわたしがひとつになれば、新たに国を造るも容易なことだ。ああ、我ながらいい考えですね。歪み切ったこの国をまっさらに消し去って、完璧な国をふたりで一から造り上げましょう」
「あなた……何を言っているの……?」
まるで会話がかみ合わない。リーゼロッテの中で憤りと恐れが広がっていく。
寝台にはアルフレート二世をそれらしく寝かせてある。チャンスがあるとしたら、相手が油断しているはじめだけだ。一瞬の隙をついて、部屋を飛び出すしかないだろう。
ベッティはあのあと、具合が悪いまま神官に連れられて行った。解毒剤のない媚薬は、体から抜けるのを待つしかないらしい。それでもちゃんと手当はしてもらえるだろうか。息遣いも荒くふらふらになったベッティは、ものすごく苦しそうだった。
(毒に強いベッティですら、あんなになってしまうなんて……)
慣れない自分が口にしていたら、今頃どんなことになっていたのか。想像するだけで身震いが起きた。媚薬が効いているはずのリーゼロッテに、今夜、黒幕は会いに来るというのだから。
(大丈夫……わたしはヴァルト様の託宣の相手だもの……きっとちゃんと切り抜けられる)
震える指で胸の守り石を握りしめた。青の波動を感じながら、ひとりじゃないと言い聞かせる。
耳を澄ませても何も聞こえてこない。廊下の足音はいつも大きく響くので、人が来たらすぐに分かるはずだ。やたらと時間が長く感じられて、自分の鼓動だけが耳についた。
このまま誰も来ないのでは。そんな考えが浮かんでくるも、希望は儚く闇の中に溶けこんだ。
ふいに暗がりだった部屋の一角が、青銀色に仄かに光る。夜目が効いているリーゼロッテには、それが扉の辺りだとすぐに分かった。
蝶番を軋ませて、ゆっくりと扉が開いていく。鍵が回される音はしなかった。廊下を歩いてくる足音も。
誰かが入ってくる気配を感じながら、リーゼロッテは必死に息を詰めた。相手が寝台に気を取られているうちに、扉に向かって駆けだそう。だからそれまでは気取られては駄目だ。
しかし人影は寝台には目もくれなかった。迷いなくこちらに向かってくる衣擦れの音に、縮こまらせた体がカタカタと震えた。
「おや? 報告とは少し違う状況のようですね」
場にそぐわない穏やかな声がしたとき、月明かりが窓から差し込んだ。白く浮き出した神官服の男に、リーゼロッテは息を飲む。
「あなたは……」
部屋の片隅でしゃがみこんだまま、美しい顔立ちの男を見上げた。いつか会った神官だ。このまなざしを向けられる不快感を、リーゼロッテはよく覚えている。
「ご記憶いただけているようですね。リーゼロッテ・ラウエンシュタイン」
「……わたくしはリーゼロッテ・ダーミッシュですわ」
「貴族の決めた籍に、意味などありません。貴女は紛れもなく星読みの末裔だ」
そこで言葉を切ると、男は口元に笑みを刷いた。確か盲目の神官だった。なのに、こんなにも刺すような視線を感じるのはなぜなのか。
震えを止められないまま、決死の思いで立ち上がった。このまま相手の好きになどさせてなるものか。
「わたくしをこんなところに閉じ込めて、一体どういうおつもりですか? 神官と言えど捕まれば公平に裁かれます。このまま逃げ切れるなど甘い考えですわ」
「さて、それはどうでしょう。わたしは選ばれた人間。いえ、まさに選ぶ側――青龍そのものと言ってもいい」
「何を馬鹿げたことを」
「信じられないのは仕方のないことですが、いずれ貴女にも理解できましょう」
「理解などさせるつもりはないくせに……!」
恐怖を押し殺して、リーゼロッテは男を睨み上げた。
「あなたのしていることは犯罪です。神職に身を置く立場でありながら、わたくしにあんな薬を盛るだなんて……! 気が触れているとしか思えませんわ」
「それは心外ですね。初めての貴女でも楽しめるようにと、わたしなりの配慮だったのですが」
「ふざけないで……!」
怒りのあまり声が震えた。だが常識が通用する相手ではない。冷静な男の物言いが、得体の知れなさを余計に膨れ上がらせる。
「ふざけてなどいませんよ。貴女ほどわたしの花嫁に相応しい者はいない」
「誰があなたの花嫁になどなるものですか。わたくしはジークヴァルト様の託宣の相手です。それは龍がお決めになったこと。誰にも覆すことはできませんわ」
「ああ、そんなことを憂いていたのですか。貴女が今ここでわたしに抱かれようと、何も問題はありません。例え純潔でなくなったとしても、託宣に支障など出ないのですから。ですがそうですね……龍の盾の彼には、時期が来たら貴女を貸し出すことにしましょうか。その時に心置きなく託宣の子をもうければいい」
「本気でそんなことをおっしゃっているのですか……?」
目の前に立つ男が何を言っているのか、まるで理解ができない。とてもではないが正気の沙汰とは思えなかった。
「こんな馬鹿げたこと、龍がお許しになるはずはありません」
「老いぼれた龍の言うことなど、わたしには何の意味も持ちませんね。それに貴女とわたしがひとつになれば、新たに国を造るも容易なことだ。ああ、我ながらいい考えですね。歪み切ったこの国をまっさらに消し去って、完璧な国をふたりで一から造り上げましょう」
「あなた……何を言っているの……?」
まるで会話がかみ合わない。リーゼロッテの中で憤りと恐れが広がっていく。