ふたつ名の令嬢と龍の託宣

【第2話 場違いな求婚】

 小さな異形の思いが流れ込んでくる。懸命に訴えかける姿を前に、リーゼロッテは目蓋(まぶた)を閉じた。

「そう……あなたは過去のことは思い出したくないのね。いえ、いいのよ、誰だってつらいことは忘れたいって思うもの……ええ、そうね、それでいいと思うわ。今までずっとひとりで頑張って耐えてきたのね……でももう大丈夫。その思いと一緒に、このまま天に(かえ)りましょう?」

 もう楽になりたい。何もかもを忘れ去って。暗く重い(おり)の中、小鬼は必死に手を伸ばしてくる。ゆっくりと瞳を開き、小鬼に向かってほほ笑んだ。

 緑の力が小鬼を取り巻いて、絡みつく闇から切り離す。そして流れる水路のように、天に続く狭間(はざま)へと導いていった。
 低く重苦しかった小鬼の波動が、昇るごとにふわりと軽やかになっていく。やがては光に溶け込んで、眩しさで輪郭すら見えなくなった。

(やっとあの子を楽にしてあげられた……)

 閉じゆく天への扉に目を細める。言いようのないよろこびが、胸に深く込み上げた。

 リーゼロッテの力に触れたとき、多くの小鬼はご機嫌にはしゃぎまわった。そのほとんどが満足したかのように、いつしか自発的に還っていく。

 だが一部の異形は(かたく)なに心を閉ざし、黒い呪縛に囚われたままでいた。そんな小鬼たちはみな、終わりのない苦痛にひたすら耐えているようだった。
 それがつらく悲しくて、どうにか楽にしてあげたかった。だが異形自らが助けを求めてこないことには、リーゼロッテは天に還せない。だから根気よく異形のこころに寄り添った。

 自分の存在に気づいてくれるまで、ただそばにいるだけだ。暗い思いに触れていると、自分も落ち込んだ気分になってくる。それでもその先にある光を信じて、リーゼロッテは決して諦めなかった。

「今日はもう(しま)いにしろ」
「分かりましたわ、ヴァルト様」

 リーゼロッテを囲んで輪になっていた異形たちが、一斉に逃げ散らばっていく。サロンの真ん中で直接絨毯(じゅうたん)に座っていたリーゼロッテは、ジークヴァルトに引き寄せられた。
 あぐらの上に座らされ、腹に回された手に力がこもる。ジークヴァルトの胸に背を預け、リーゼロッテは腕の中、力を抜いた。

「あまり異形に同調しすぎるな。下手をすると取り込まれる」
「ええ、分かっておりますわ」

 見上げるとジークヴァルトは難しい顔をしている。あまりやりすぎると、異形を天に還す行為も禁止されそうだ。

「わたくし、ジークヴァルト様が一緒の時しか異形を(はら)いません。勝手な真似は致しませんから」
「ああ。無理に止めさせたりはしない」

 それでも眉間にしわが寄っていて、リーゼロッテはそこをもみほぐすように指をあてた。

「ふふ、おしわがなくなりましたわ」

 穏やかな時間に自然と笑みが漏れる。再び背を預けると、ジークヴァルトの腕に手を重ねた。

「あの、ヴァルト様」
「なんだ?」
「きちんとカークを連れていきますから、お屋敷の中だけでもお散歩を」
「却下だ」
「どうしても駄目ですか……?」
「駄目だ」
「わたくし転ばないよう気をつけますわ」
「気をつけても転ぶかもしれないだろう? 散歩に行きたいならオレが抱いて連れていく」
「それでは意味がありませんわ。わたくし、領地のお屋敷では毎日転んでおりました。上手に転ぶのには慣れております。ですから」
「駄目だ、却下だ、諦めろ」
「むぐっ」

 いきなり菓子を押しつけられる。唇を尖らせたまま、リーゼロッテはそれを口にした。
 説得は続行不能で、このあと結局は部屋まで運ばれた。ここ数日、本当に部屋の中以外は一歩も歩いていないリーゼロッテだった。

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