ふたつ名の令嬢と龍の託宣
【第12話 新しい日々】
通された一室で、ディートリンデは早々に自分の夫と息子を追い出した。何をどう話せばいいのだろう。ふたりきりにされたリーゼロッテは、動揺したままソファへと腰を下ろした。
(ヴァルト様のお母様がロッテンマイヤーさんだったなんて……。フーゴお義父様たちも知っていたはずよね。どうして本当のことを教えてくれなかったのかしら)
旅立つ直前に、夫人の名はアルブレヒツベルガーだと教えてもらったばかりだ。しかし先ほどロッテンマイヤーさんと口に出して呼んでしまった。
ジークヴァルトの母親は、怒らせると怖い人だと聞いていた。思えばロッテンマイヤーさんも、ものすごく厳しい人だった。一度目の失敗には寛容でも、二度三度と同じことを繰り返すと、震えあがるくらいの剣幕で叱られたことを思い出す。
そんなとき、向かいに座るディートリンデと目が合った。
「立派な淑女になったわね、リーゼロッテ」
「ディートリンデ様……」
やさしく目を細められ、怒っていないことに安堵した。よく見なくても綺麗な女性だ。アデライーデがもっと歳を経たら、きっとこんな感じになるのだろう。
「ディートリンデ様がアルブレヒツベルガー夫人だったのですね。わたくし小さくてよく覚えていなくて……」
「あら、言えるようになったの。でもロッテンマイヤーでかまわないのよ」
「えっ!? わたくし、その名を口に出していたのですか?」
「どうしても発音できないから、あなたがそう呼ばせてくれって言ったんじゃない。わたしのあの姿が知り合いの女性に似ていたのでしょう?」
「知り合いと言いますかなんと申しますか……」
子どものころの自分、恐るべしだ。ロッテンマイヤーさんがアルプスに住む某少女の友人令嬢の教育係だなどと、今さら説明できるはずもない。
「わたしの方こそ黙っていて悪かったわ。ダーミッシュ伯爵に口止めしたのもわたしよ。龍から制限を受けて、あの時わたしにできることは限られていたから……」
「制限を……?」
「龍に目隠しされることは知っているでしょう? 伯爵夫妻は龍の存在を知らないし、あなたは異形の者が視えなくなっていたし」
「視えなくなっていた?」
「ええ、視えていた頃の記憶も含めて、マルグリット様はあなたの力を封印されたから」
「母様が……」
マルグリットの力は幾度も自分を守ってくれた。いまだこの身をマントのように覆っていて、それを感じるたびに温かい気持ちになるリーゼロッテだ。
「ああ、今も駄目ね。真実は伝えられそうにないわ」
龍に目隠しをされたのだろう。何かを言いかけて、ディートリンデは苛立つように息を吐いた。
「でもこれだけは知っておいて。マルグリット様はあなたのことを、誰よりも愛していらっしゃったわ」
「はい、ディートリンデ様……ありがとうございます」
実母との思い出はほんの僅かだ。それでもあたたかな記憶はちゃんと胸にあって、リーゼロッテは涙ぐみながら小さく頷いた。
「今のあなたの姿を見たら、マルグリット様もおよろこびになるわ。本当に立派な淑女になったわね」
ディートリンデは慈しむように目を細めた。厳しいがやさしいひとなのだろう。リーゼロッテはそんなふうに思った。
「ロッテンマイヤーさんはやっぱり異形の者が視えていたのですね」
「幼いあなたときたら、びっくりするくらい異形を背負っているんだもの。こっそり様子を見に行ったときは本当に驚いたわ」
大仰に手を広げて、ディートリンデはくすりと笑った。
「眠っている間に憑いた異形を浄化しているようだったけれど、昼の間に何度も転ばされているし、見るに見かねて伯爵に頼んでマナー教師を買って出たのよ」
「そうだったのですね。アルブレヒツベルガーの家名は侯爵家と伺ったのですが……」
「アルブレヒツベルガー侯爵家はわたしの実家よ。そのくらいはきちんと調べれば、すぐに分かったのではなくて? アーデルハイド」
「ごめんなさいっ、ロッテンマイヤーさん!」
条件反射のようにリーゼロッテは背筋を正した。こんなやりとりを、子どものころに何度もしていたように思う。見つめ合って、ふたり同時に吹き出した。
「そういえばわたくし、アーデルハイドでしたわね」
「これもあなたがそう呼べと言ったんじゃない。変わった娘だと思ったけれど、素直で優秀な生徒だったわ」
「わたくし、ロッテンマイヤーさんには本当に感謝しております」
「幼いあなたにしてみれば、厳しすぎたでしょうね。あまり時間がなかったの。許してちょうだい」
「いいえ、わたくしが今、社交界で恥をかかずにいられるのも、ディートリンデ様のおかげです」
「あなたは昔と変わらず本当にいい子ね……」
口元にやわらかな笑みを作ると、ディートリンデはふっと真顔になった。
「ジークヴァルトのこと、よろしく頼むわね。不愛想で分かりにくい子だけれど……あの子にはあなたしかいないの」
「はい、ディートリンデ様。わたくしにもジークヴァルト様しかおりませんから」
「そう……ありがとう、リーゼロッテ」
挨拶に行くまでの緊張が嘘のようだ。ディートリンデとほほ笑み合って、しばらくの間、談笑を続けた。
「最後に大事なことを伝えておくわ。龍に目隠しされて、わたしたちはあなたに多くを語れない。でもね、同じ託宣を受けた者には、一度だけ龍は目隠しを取ることを許すのよ」
「同じ託宣を受けた者……?」
「あなたはわたしと同じ、龍の盾の伴侶となる託宣を受けた。だから一度だけなら制限を受けることなく、わたしの口からあなたに伝えることができるの。何を話すのかわたしが選び取るよりも、あなたが知りたいことを伝えたいと思って」
「わたくしが知りたいこと……」
「ええ、龍の託宣にまつわること。マルグリット様に関することでもいいし、ジークヴァルトのことでもいいわ。わたしが知り得ることなら話せるから」
少し考えてみたが、今のところ何も思いつかない。慌てて聞くよりも、時間をかけて吟味したほうがよさそうだ。
「……今すぐは思い浮かびませんので、知りたいことができたらその時はお願いできますか?」
「もちろんよ。いつでも言ってちょうだい」
「ディートリンデ! そろそろもういいんじゃないか!? オレはリンデがいなくてさみしいぞぉ!」
そんな話をしているときに、焦れた様子でジークフリートが部屋に飛び込んできた。便乗するようにジークヴァルトもやってくる。
「……もうひとつ言い忘れていたわ。いいこと、リーゼロッテ。もしもジークヴァルトがしつこい時は、容赦なく部屋から叩き出しなさい。対の託宣を受けた男どもは、野放しにすると手がつけられないほど増長していくわ。腹にすえかねたら一年くらい口をきかなければ、それで聞き分けよくなるから。よぉく覚えておくといいわ」
一年はさすがに長いのでは。そう思ったものの、今までロッテンマイヤーさんの言うことに間違いはなかった。この教えを確と胸に刻んでおこうと、リーゼロッテは神妙に頷いた。
(ヴァルト様のお母様がロッテンマイヤーさんだったなんて……。フーゴお義父様たちも知っていたはずよね。どうして本当のことを教えてくれなかったのかしら)
旅立つ直前に、夫人の名はアルブレヒツベルガーだと教えてもらったばかりだ。しかし先ほどロッテンマイヤーさんと口に出して呼んでしまった。
ジークヴァルトの母親は、怒らせると怖い人だと聞いていた。思えばロッテンマイヤーさんも、ものすごく厳しい人だった。一度目の失敗には寛容でも、二度三度と同じことを繰り返すと、震えあがるくらいの剣幕で叱られたことを思い出す。
そんなとき、向かいに座るディートリンデと目が合った。
「立派な淑女になったわね、リーゼロッテ」
「ディートリンデ様……」
やさしく目を細められ、怒っていないことに安堵した。よく見なくても綺麗な女性だ。アデライーデがもっと歳を経たら、きっとこんな感じになるのだろう。
「ディートリンデ様がアルブレヒツベルガー夫人だったのですね。わたくし小さくてよく覚えていなくて……」
「あら、言えるようになったの。でもロッテンマイヤーでかまわないのよ」
「えっ!? わたくし、その名を口に出していたのですか?」
「どうしても発音できないから、あなたがそう呼ばせてくれって言ったんじゃない。わたしのあの姿が知り合いの女性に似ていたのでしょう?」
「知り合いと言いますかなんと申しますか……」
子どものころの自分、恐るべしだ。ロッテンマイヤーさんがアルプスに住む某少女の友人令嬢の教育係だなどと、今さら説明できるはずもない。
「わたしの方こそ黙っていて悪かったわ。ダーミッシュ伯爵に口止めしたのもわたしよ。龍から制限を受けて、あの時わたしにできることは限られていたから……」
「制限を……?」
「龍に目隠しされることは知っているでしょう? 伯爵夫妻は龍の存在を知らないし、あなたは異形の者が視えなくなっていたし」
「視えなくなっていた?」
「ええ、視えていた頃の記憶も含めて、マルグリット様はあなたの力を封印されたから」
「母様が……」
マルグリットの力は幾度も自分を守ってくれた。いまだこの身をマントのように覆っていて、それを感じるたびに温かい気持ちになるリーゼロッテだ。
「ああ、今も駄目ね。真実は伝えられそうにないわ」
龍に目隠しをされたのだろう。何かを言いかけて、ディートリンデは苛立つように息を吐いた。
「でもこれだけは知っておいて。マルグリット様はあなたのことを、誰よりも愛していらっしゃったわ」
「はい、ディートリンデ様……ありがとうございます」
実母との思い出はほんの僅かだ。それでもあたたかな記憶はちゃんと胸にあって、リーゼロッテは涙ぐみながら小さく頷いた。
「今のあなたの姿を見たら、マルグリット様もおよろこびになるわ。本当に立派な淑女になったわね」
ディートリンデは慈しむように目を細めた。厳しいがやさしいひとなのだろう。リーゼロッテはそんなふうに思った。
「ロッテンマイヤーさんはやっぱり異形の者が視えていたのですね」
「幼いあなたときたら、びっくりするくらい異形を背負っているんだもの。こっそり様子を見に行ったときは本当に驚いたわ」
大仰に手を広げて、ディートリンデはくすりと笑った。
「眠っている間に憑いた異形を浄化しているようだったけれど、昼の間に何度も転ばされているし、見るに見かねて伯爵に頼んでマナー教師を買って出たのよ」
「そうだったのですね。アルブレヒツベルガーの家名は侯爵家と伺ったのですが……」
「アルブレヒツベルガー侯爵家はわたしの実家よ。そのくらいはきちんと調べれば、すぐに分かったのではなくて? アーデルハイド」
「ごめんなさいっ、ロッテンマイヤーさん!」
条件反射のようにリーゼロッテは背筋を正した。こんなやりとりを、子どものころに何度もしていたように思う。見つめ合って、ふたり同時に吹き出した。
「そういえばわたくし、アーデルハイドでしたわね」
「これもあなたがそう呼べと言ったんじゃない。変わった娘だと思ったけれど、素直で優秀な生徒だったわ」
「わたくし、ロッテンマイヤーさんには本当に感謝しております」
「幼いあなたにしてみれば、厳しすぎたでしょうね。あまり時間がなかったの。許してちょうだい」
「いいえ、わたくしが今、社交界で恥をかかずにいられるのも、ディートリンデ様のおかげです」
「あなたは昔と変わらず本当にいい子ね……」
口元にやわらかな笑みを作ると、ディートリンデはふっと真顔になった。
「ジークヴァルトのこと、よろしく頼むわね。不愛想で分かりにくい子だけれど……あの子にはあなたしかいないの」
「はい、ディートリンデ様。わたくしにもジークヴァルト様しかおりませんから」
「そう……ありがとう、リーゼロッテ」
挨拶に行くまでの緊張が嘘のようだ。ディートリンデとほほ笑み合って、しばらくの間、談笑を続けた。
「最後に大事なことを伝えておくわ。龍に目隠しされて、わたしたちはあなたに多くを語れない。でもね、同じ託宣を受けた者には、一度だけ龍は目隠しを取ることを許すのよ」
「同じ託宣を受けた者……?」
「あなたはわたしと同じ、龍の盾の伴侶となる託宣を受けた。だから一度だけなら制限を受けることなく、わたしの口からあなたに伝えることができるの。何を話すのかわたしが選び取るよりも、あなたが知りたいことを伝えたいと思って」
「わたくしが知りたいこと……」
「ええ、龍の託宣にまつわること。マルグリット様に関することでもいいし、ジークヴァルトのことでもいいわ。わたしが知り得ることなら話せるから」
少し考えてみたが、今のところ何も思いつかない。慌てて聞くよりも、時間をかけて吟味したほうがよさそうだ。
「……今すぐは思い浮かびませんので、知りたいことができたらその時はお願いできますか?」
「もちろんよ。いつでも言ってちょうだい」
「ディートリンデ! そろそろもういいんじゃないか!? オレはリンデがいなくてさみしいぞぉ!」
そんな話をしているときに、焦れた様子でジークフリートが部屋に飛び込んできた。便乗するようにジークヴァルトもやってくる。
「……もうひとつ言い忘れていたわ。いいこと、リーゼロッテ。もしもジークヴァルトがしつこい時は、容赦なく部屋から叩き出しなさい。対の託宣を受けた男どもは、野放しにすると手がつけられないほど増長していくわ。腹にすえかねたら一年くらい口をきかなければ、それで聞き分けよくなるから。よぉく覚えておくといいわ」
一年はさすがに長いのでは。そう思ったものの、今までロッテンマイヤーさんの言うことに間違いはなかった。この教えを確と胸に刻んでおこうと、リーゼロッテは神妙に頷いた。