エリート獣医師の海知先生に恋をして
 一瞬、驚いた体に力が入り、石みたいに固まり、息が詰まりそう。

「どうした、深刻な顔して。なにか心配事でもあるのか?」

 海知先生に握られた手首が熱くて、同時に心臓が体の外へ飛び出るみたいに、激しくどくんどくん鳴り響いてきて、どうにも止まってくれない。

「かああい」
 じゃなくて、しっかりしてよ、海知先生って言いたいの。
 どんどん鼓動が早くなるから緊張して、声が裏返っちゃった。

 落ち着こう、なにも考えないで心を無にして。
 息を整えるように、何度も大きく呼吸する。

「海知先生が話してくださった、イギリスの話を思い出したんです」
 ようやく出た言葉。

 しばらく私が落ち着くまで、いつもみたいに黙って、じっと待っていてくれた海知先生。

 そのあいだも握られていた手から、私のどきどきしている心が、脈拍を通して海知先生に伝わっているんじゃないかって思ったら、よけいにどきどきしちゃった。

 安心したみたいで、しっかりと握っていた私の手首を離した。

「こっち向いて」
 リラックスした私の体を、優しく自分の方へ向かせる。

「子供のころ、おやつに生のにんじんかじってた話か?」
 いたずらが成功した子みたいに、きらきらした瞳で笑顔を見せる。

「そういえば、ドイツに行ったとき、友だちのとこも、おやつは生のにんじんだったんだよ」

 ドイツのおやつもそうだったんだ。しかし、海知先生って、いろいろな国にお友だちがいるんだね。

 って、そうじゃなくて。

「深刻な顔して、どんな心境で、生のにんじんを食べてるシーンを思い出すんですか。動物愛護先進国ですよ」

「動物愛護のことか」

 わかっている、いつも私の緊急を(ほぐ)そうと笑わせてくれる海知先生の優しさを。

「先進国は、イギリスを含めヨーロッパに集中してるな」

「日本では動物は、命あるものなのに物扱い。盲導犬さえも、入店拒否される場合がある。情報を見聞きすると、日本は遅れてます」

「たしかにイギリスは、愛護精神や行政の取り組みも進んでる。ただ、ひとりひとりの意識の高さは思ったよりなあ」

 納得がいかないように、語尾が伸びて首をひねっている。

「情報は、俺以外のも入ってるだろ。最終的には個人差があるから、いい人もいれば嫌な奴もいるよ。それだけは、どこの国でもいっしょだ」

 躾が入っていないのに、ノーリードで人間や犬に怪我を負わせるような、マナーやルールが守れない、無責任な飼い主がいるんだって。

 動物愛護先進国のヨーロッパにも。

「社会に浸透してる固定観念や一般論、思い込みで判断したらダメだ。自分の経験や感覚も大切にしないと。その目や耳で、直接見聞きしたことをだよ」

 経験豊富な海知先生が、おとなに感じる。

 視線を感じたから、ふとなにげなく海知先生の方に視線を馳せた。

 強い眼力には柔らかな優しさがまじり、切ない瞳で私をじっと見つめている。

「俺が育ったロンドンに、連れて行きたい人がいる」
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