おとしもの、わすれもの。
 日本の田舎なら、どこにでもありそうな古びたバスの停留所。トタン屋根に木造の待合小屋。大人が五人も入れば、ギュウギュウ詰めになりそうなほど狭い空間に壊れかけのベンチ。壁のホーロー看板はツヤを無くし、錆びついている。昭和のタレントと思われる女性の顔も色あせて、わずかに輪郭が残る程度だ。まさに絵に描いたような光景に思わず、ニヤついてしまう。私は小屋の手前に置かれたいわゆるダルマ型バス停――こちらもかなりの年季が入ったものだ。の時刻表で、帰りのバスの時間を確認した。

 小屋に入ろうとすると、外からは死角で見えなかったが、中には小学生の少女が二人並んで座っていた。小声だが話し声が聞こえる。私はなんとなく入るのをためらった。

「ねえ、止めたほうがいいよ。家出なんて。みーちゃんのお母さん悲しむよ」

 浅黒の肌におかっぱの細長い目をした少女が言った。

「でも、お母さんがとても大事にしていたのに……私……私がなくしちゃったから……」

 べそをかきながら、ツインテールの髪形に大きな丸い目をした少女が言った。

「それに変な人が多いから……」おかっぱの少女が一瞬こちらを見てそれから、「あぶないよ」と言った。

 やはり居心地が悪そうなので、バスの時間まで私はそこら辺をぶらつくことにした。辺り一面に拡がる田んぼを眺めながら、その先に見える住宅街の方へと歩き始めると、背後で

「じゃあ、早く帰るんだよ。私塾の時間だから行くけど」

 とおかっぱ少女の声が聞こえた。

 ということは家出少女一人になったというわけだ。大丈夫かな? 頭の中をそんな思いが過り、ふと足が止まったが、すぐにおかっぱ少女のにらむような目を思い出し、余計なことはすまいと再び歩き始めた。しばらくして、ようやく住宅街に差し掛かるところで、背後から今度は

「ねえ、おじちゃんバスには乗らないの?」

 と声がした。

 少し驚いて振り返ると、ツインテールの少女がいつのまにか後をついて来ていた。

「え? なに……?」

 突然のことに私がたじろいでいると、少女が足早に近寄って来る。

「おじちゃん、私とふみかちゃんの話が聞こえたと思うけど、私、家出中なの」

 と少女が並んで歩く私の顔を見上げた。

 周りから見れば、親子にしか見えないかもしれないが、それは当然、事実ではない。そしてそれこそが、私にとってはマズイ状況だと言える。つまり、彼女の知り合いにでも会えば、それこそ私はたちまち見知らぬ少女を連れまわす”変な人”などという不名誉極まりないレッテルを貼られかねないのだ。面倒ごとはごめんだ。軽くあしらおうと、

「そうだよ。聞くつもりはなかったんだけど、確かに聞こえちゃったね。でも、家出はよくないよ。ふみかちゃんだっけ? 彼女も言ってたけど、お母さん心配してるよ。お家帰ったほうがいいよ」 

 となるべく素っ気ない感じで言うと、いきなり彼女が泣き始めた。予想外のリアクションにあせった私はその場に膝をつき、彼女の目の高さに顔を寄せると、

「急にどうしたの? おじちゃんがちゃんとお話し聞いてあげるから、落ち着いて。泣かなくていいんだよ」

 と必死になだめてしまっていた。

 とりあえず、近くの公園で話を聞くことにした。ちゃんと親身になって、丁寧に対処した方が却って早道のような気がした。彼女と並んでベンチに腰を下ろした。

「まず、あらためてお互い自己紹介しようか。おじさんは佐藤晴海。歳は今年の六月で三十九歳。仕事はサラリーマンで、この町には仕事で来たんだ。住んでるところは仙台」

 私の名前を聞いた子どもたちのリアクションはいつもこうだ。例にもれず、いつのまにか泣き止んでいた少女が今度は声を立てて笑い出した。

「はるみだって。女の子みたい。かわいい」

 まさに泣いたカラスが……だ。

「さあ、次は君の番だよ。自己紹介して」

 まだ笑い続ける彼女を促した。

「私の名前は原田みらの。十歳。小学四年生。家は教えないよ。だって、帰らないから」

 同じ名前だ……。また泣き出しそうな彼女を見ながら、急に十四年前の記憶がよみがえってきた――

『娘なら名前はみらの』

 私がそう言うと、

『なんだか名前負けしそう』

 と彼女は笑いながら、それでも嬉しそうな表情をしていた。

「おじちゃん、ねえおじちゃん。大丈夫? 話聞いてる?」

 少女の声に現実に引き戻された。

「ああ、ごめん。それでどうして、みらのちゃんは家出したいの?」

 これも聞こえていた話なので、おそらく母親の大切なものをなくしたのが、原因であろうが、基本的なことなので、ちゃんと確認しておこうと思った。

「みーちゃんでいいよ。みんなそう呼ぶから」まず彼女はそう言うと、うつむき悲しそうな表情を浮かべながら、か細い声で話を続けた。「私……お母さんがとても大事にしていた腕時計を……」

「腕時計⁉」思わず声に出してしまった。驚いた顔で少女がこちらを見ている。「ごめん。いや、なんでもないんだ。続けて」

「お母さん、私に教えてくれたの。初恋の人からのプレゼントだったんだって。お父さんとは別の人。お父さんはお母さんをいじめてばかりのヒドイ人だったけど、今は離婚したから、もう関係ないんだ。だからいいの」

 彼女が窺うようにこちらを見ている。私はなんと言っていいのか分からず、ただ頷いた。

「お母さん、初恋の人が大好きだったけど、大ゲンカしちゃって。その人に二度と会わないって言っちゃったんだって。でも後悔してるって言ってた。それでその後、お父さんに出会って結婚して、私が生まれたんだけど。最初は優しかったのに、だんだんお酒を飲むと、お母さんを殴るようになって。私は小さくて覚えていないんだけど、お父さんは泣きわめく私のことも殴ろうとしたみたい。それで、お母さんは離婚するって決めたって言ってた。お父さんとの結婚は失敗したけど、私が生まれてきてくれたことは最高の幸せだって……」

 少女は再び小さく泣いた。

「大丈夫かい?」

 私は彼女にハンカチを差し出した。

「ありがとう」彼女はハンカチを受け取り、鼻をかむとこちらを見て、かすれ声で少し笑うと、話に戻った。「お母さん、初恋の人と大ゲンカしたときはその人のこと許せないって思ったんだけど、でもだけど、その人はとても優しくていい人だったんだって。お母さんがこれまで出会ってきた人の中で、最高の人だって言ってた。だから、初めてのプレゼントの腕時計をとても大事にしてて、何回もこの話を聞かせてくれたの。それなのに、私……それをなくしちゃった。私……この話が大好きだから、ふみかちゃんにも聞かせてあげようと思って、勝手に腕時計を持ち出して、どっかに落としてきちゃった。どうしよう……お母さん、きっと悲しんじゃうよ。合わせる顔がないよ」

「そうじゃないよ」

 と私は穏やかに言った。

「え?」

 不思議そうな顔でわたしを見つめる少女。

「お母さんが本当に悲しむのは、その腕時計がなくなることよりも、初恋の人との思い出が消えてしまうことよりも、何千倍も何万倍も大切なみーちゃんがお母さんの元からいなくなってしまうことだよ」

 私がそう言うと、なにかに気づいた表情を見せる彼女。それから、ちょっとの間、その時間を嚙みしめようにじっとしていた。それから、

「おじちゃん、いい人だね」

 彼女が今日一番の笑顔を見せた。

 

 私は帰る前に、どうしても寄りたい場所があると、そこからそう離れてはいないが、小高い丘の上にある小さな神社に彼女を連れていった。

「でもどうして、みーちゃんは見も知らないおじちゃんに声なんてかけたの? ふみかちゃんも言ってたけど、変な人だったら、たいへんなことになってたかもしれないよ」

 道すがら私がたずねると、

「なんとなくだよ。誰かに話を聞いてもらいたかったし。それにおじちゃん弱そうだし」

 少女がニヤついた顔で、私を見上げている。

「まいったな。でも弱いっていうのは当たってるかも。ケンカ苦手だし」

 私が脱力した感じの猫パンチを繰り出して見せると、彼女が声をあげて笑った。

 神社に着くと、私は

「おじちゃん、みーちゃんにひとつ噓ついちゃった。おじちゃんこの町へは仕事で来たって言ったけど、本当は忘れ物を探しに来たんだ」

 と打ち明けた。

「忘れ物?」

 彼女が確認するように、繰り返した。

「そう、昔十四年前ここに置き忘れて行ってしまったもの」

 私が境内に向かって歩き出すと、どこからか人の叫ぶ声が聞こえてくる。

「みーちゃん! みらのー! どこ行ったのー⁉」

「あ、お母さんだ。お母さんの声だ!」

 少女が声を上げる。

「お母さんが探しに来てくれたんだ。みーちゃん、よかったね。おじちゃんが言ったとおりだったろう。みーちゃんがいなくなることが、お母さんは一番つらいんだ。さあ、行ってあげなさい。そして、心配かけたことちゃんと謝るんだよ。腕時計のことは……大丈夫だから」

 そう私に促され、声のする方に行きかけるが、

「おじちゃんは来ないの?」

 と彼女がたずねる。

「だっておじちゃんみたいな見知らぬ中年オヤジが一緒にいたら、お母さんびっくりしちゃうよ。それにおじちゃんここでお参りしたら、もう、すぐに行かないとバスが来ちゃう。今度の逃したら、遅くなってしまうし。田舎のバスは本数が少ないからね。さあ、行って」

 私の言葉に頷き、礼を言うと、少女は走りだした。その背中が見えなくなるまで、私はその場で見送った。



 少女が目の前に現れると、母親はすぐに彼女を強く抱きしめた。

 午前三時に家を出た少女が部屋にいないことに母親が気づいたのは必然だった。いつも決まって午前四時にトイレに起きる彼女は普段なら、トイレとベッドの移動だけだが、その道中に今日はめずらしくいつも就寝中は消えているはずの娘の部屋の電気が点いていることに違和感を感じ、部屋をのぞくと案の定、ベッドはもぬけのからだった。警察への連絡が頭を過ったが、どう考えても抜け出したのはみらの本人の意思による行動であるように思えた。つまり、眠りが浅い自分に気づかれることなく、誰かが侵入して連れ去ったとは部屋の状況からいっても、現実的な考えとは思えず、であるならば、よくある子どもたちの探検や秘密の集まりといったような親にナイショのイベントと考えるべきではないか。明日というかもう日付変更線は越えているのだから、今日は日曜日。ますますその可能性が高い。一抹の不安があるものの、こんな夜中に騒ぎ立てても……もう少し様子を見るべきだ。朝一番でふみかちゃんの家に電話してみよう。それから、朝の7時まで寝ずに過ごし、予定通り電話すると、ふみかちゃんも朝からご両親にはなにも言わずに、外出しているらしい。彼女はこれでほぼ決まりだと思った。予想通りこれは子どもたちのイベントなのだと。しかし、昼過ぎになってふみかちゃんの母親から電話が入ると、彼女は卒倒しそうになった。ふみかちゃんはもう帰ってきていて、みらのが家出したと言っているとのことだ。母親失格だと彼女は思った。すぐに車でふみかちゃんの家へ行き、話を聞いてバス停へと向かうが、当然のようにその場所に娘はいなくてバス会社に連絡して、運行中のバスの運転手に確認してもらったが、そのような少女は見ていないとのこと。再度確認してもらったが、日曜日で本数も少なく、また利用客が少ない状況で見落としや記憶にないなどありえないとの返事。絶望的な気分になったが、彼女はまだあきらめないと、自分を奮い起こしてとにかく町のあちこちを探して回ることにした。警察への連絡は最終手段だ。思いつく限り、みらのが行きそうな場所、二人で行った思い出の場所などくまなく探したが、ダメだった。最後に、なぜかみらのを連れてきたことはなかったが、自分にとって大切な場所である、小高い丘の上にある神社へと向かった。ふみかちゃんによると、みらのの家出の原因は彼からもらった腕時計の紛失ということらしい。あの時計をあの神社でもらったことはまだ娘に話してはいないのだから、いるはずもないのだが、藁にも縋る思いでやってきた。すると、娘が目の前に現れた。彼女は神に自然にそれから、彼女を取り巻くすべての人に物に事に感謝した。そして、娘を抱きしめ、彼女にも感謝して涙を流した。娘も謝罪と感謝を交互に泣き叫んでいる。しばしの間、そうした抱擁と温かい言葉の応酬を繰り返したのち、落ち着きを取り戻した2人はそれぞれの昨日からのことをあらためて、確かめ合うように話し合った。もっとも、母親の方は心配だった点を確認する質問ばかりではあったが、それに答えるかたちで、娘の方は昨日、腕時計をなくしたいきさつ、ふみかちゃんと計画した夜中の家出について、朝になってふみかちゃんがやっぱり家出は止めた方がいいと言い出し、別れたこと、それからその後、さっきまで親切なおじちゃんと一緒にいたこと。そのおじちゃんの言葉で家出を思い止まることができたことなど、表現が拙く、母親を多少どぎまぎさせたが、たくさんの言葉で一生懸命に伝えた。ようやく母はなんとか安心できると、ふみかちゃんの家やその他の娘の友達の家、それと、バス会社に娘の無事を連絡し始めた。すべてが終わると、彼女は娘を神社の参拝へと誘った。彼女は境内に向かいながら、腕時計をこの場所でもらった時のことを話し始めた。

「初恋の人……彼はとてもロマンティストでね。サプライズとかキザな演出とかが好きだったの。みらのには笑われるかもしれないけど、お母さんもそういうクサイのが案外好きだったのね。最初に手書きの簡単な地図を渡されて、そこにはヒントも書かれていて、でもね字も絵もヘタだったから、読み解くのが大変だったわ。彼にはそれが想定外だったらしく、とても慌てていたわ。まあ、でも途中からはほとんど彼の案内で、なんとかこの神社までたどり着いたの。それから次のヒントが出されたんだけど、というか今度はクイズで、いくつかの言葉が答えになっていて、その頭文字を並べたら……」彼女はそう言って、賽銭箱の脇に立ち、娘を手招きして呼んだ。それから娘をその場にしゃがませると、賽銭箱の下を探らせた。「ま、今はもちろんそこにないけど、当時はケースに入った腕時計が……」

「あった!」

 みらのが叫んだ。

「え⁉」

 驚いた彼女も思わず、しゃがみこんでしまう。

「ケースじゃないけど……」

 そう言いながら、みらのが、掴んだものを賽銭箱の下から引き出すと、ビニール袋に入ったなくしたはずの腕時計と小さなメモ用紙が、出てきた。みらのが袋から中身を取り出し、時計とメモの切れ端を彼女に渡した。メモに書いてある文に目を通すと、《わすれものを探しに来て、おとしものを拾った。随分と時間がたったので、ほんとうに妄想じみた自己満足の旅だったけど、まさかこんな奇跡が起こるなんて》

「あ、おじちゃんだ! お母さんさっき話したお世話になったおじちゃんだよ」

 突然にみらのが叫びだした。

「え⁉」

 彼女が立ち上がると、手を振る娘の視線の先、林の木々の隙間に見える丘の下の田んぼの畦道を進む、この距離からでも分かる、その場には似つかわしくない都会の洗練されたスーツの後ろ姿が、小さく見える。

「おーい、おじちゃーん! ありがとう、またねー!」みらのが米粒大の後ろ姿に声を掛ける。「おーい、おじちゃーん! はるみちゃーん……」

「そんな……」

 母親の瞳に突然の大粒の涙。最初の一粒が流れ落ちると、そこからはとめどない滝のような涙があふれだした。

「どうしたの、お母さん……悲しいの?」

 母親のただならぬ雰囲気を感じ、振り返ったみらのが心配そうに見つめる。

「ううん……そうじゃないのよ。うれしいの……」

 そういうと徐に彼女が手を振り始める。

 それを見た娘が、驚き向き直ると、再び丘の下に目を走らせた。すると、さっきまで後姿を見せていた米粒がこちらを見上げ、手を振り返している。

「奇跡ね……さがしものとおとしものが結んだ奇跡よ」

 泣きながら、母親が言った。

 みらのにはそれがどういう意味なのか分からなかったが、間違いなく母は今日一番の笑顔をしていると感じた。それだけで、彼女はうれしい気持ちになった。



                              おわり。
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