心の刃 -忠臣蔵異聞-
第19章 愛別離苦
大石を始めとする浪士たちの仇討計画は着々と進んでいた。必要なのは義央在宅の日時だけであった。談合中、内蔵助は部屋の隅で俯いたままの金右衛門を呼んだ。
 内蔵助は絵図面を入手した経緯を、前原伊助と神崎与五郎から聞いていたのである。
「金右衛門。その方の働き見事であった。何も恥じることはないのだ。恥じねばならぬのは、それを命じた内蔵助なのだ。」
 金右衛門は、震えながら頭を下げる。
「さ、会議は終わっておる。その方を待っている妻の許へ早く戻るのだ。」
「御家老。」
 金右衛門は内蔵助に一礼して、部屋を後にする。
― すまぬ。金右衛門。 ―
 内蔵助は、部屋から出て行く金右衛門の背中に心の中で呟いた。
「御家老、絵図面は手に入れました。後は上野介の在宅日ですが、いかにしてつきとめますか。」
 浪士内の副将格である吉田(よしだ)忠左衛門(ちゅうざえもん)が話しかける。
「五日と十一日の延期で、我等の士気も下がっておりまする。」
 延期によって新たな脱名者が出てくることを、不安に思う原惣右衛門が重々しい声で話す。
「ご家老、三度目の延期はありませぬ。確実な情報を得なければ、討ち入りなど到底出来ませぬ。」
 老練な忠左衛門も、度重なる変更に頭を悩ませていた。
 内蔵助の眉間のしわが一層深くなる。そこへ、大高源五が割って入る。
「御家老。拙者、山田(やまだ)宗偏(そうへん)に弟子入りしております。近々、吉良邸にて茶会が開催される模様にて、在宅する日を必ずつきとめて参りまする。」
「頼んだぞ。」
 大高源吾の肩をつかんた内蔵助の顔には、いつもの柔和な表情は消えていた。

                  二

 昼間だというのに雲が重く垂れ込め、今にも雪が舞落ちてきそうな空。上杉家上屋敷にて江戸家老/色部又四郎は、一人思案していた。
― 赤穂の浪士たちの動向は概ねつかんではいる。しかし、討ち入り決行日が皆目見当もつかぬ。この季節には雪が降る、雪が降れば足場は不安定じゃ。戦闘において足場は重要、今月の討ち入りはあるまい。―
 すると、部屋の外から色部家の用人が色部又四郎を呼ぶ。
「御家老、お支度は整えられましたでしょうか。」
「うむ。」
 出て行こうとする色部又四郎に、隣室から声がかかる。
「御前。」
「右源太か?」
「はっ」
 右源太は隣室の襖を開け、色部又四郎の前に控える。
「討ち入りがあった場合、我等上杉は如何いたしますか?」
 色部又四郎は、目を閉じたまま答えない。
「今となっては討ち入りに備え、戦力を温存するべきかと・・・。」
 右源太の言葉に色部又四郎の反応がない。
「事ここに至っては浪士を三~四人亡き者にしたところで無益なことにて。大石の暗殺も浪士たちに堅固に守られ、最早成す術もなく。」
 無言のままだった色部又四郎は力なく呟く。
「上野介様の米沢への御出府は如何でございましょうか。」
「それが催促をしても一向に腰を上げぬ。」
 色部又四郎は、自身の膝を打ち悔しさを募らせた。
「ただ、雪が降る月に討ち入りはないと思うが。」
「油断は禁物です。」
 右源太の言葉に色部又四郎は考え込んでいた。
 なす術がないという表情の色部又四郎に、右源太が窮余の一策を訴えた。
「御前、まだ最後の手段が残されておりまする。」
「最後の手段だと?」
 色部又四郎は、この期に及んで打つ手がまだあるのかと眉間にシワを寄せた。
「はっ・・・。」
 右源太は、言葉に出しづらいのか平伏したままである。
「ま・・・まさか、右源太。」
 右源太の策略がわかり色部又四郎は、首筋に汗が伝っていくような恐怖を感じた。
「な・・・ならん!それは、ならんぞ!」
「しかし、我等上杉の面目だけは保てまする。」
―此奴、ワシに吉良様を討つよう下知を下せと言うておる。―
 右源太の言う通り義央を討てば、赤穂浪士達の目指す仇はいなくなり上杉の面目は立つ。死因は、後付けでいかようにもなる。しかし、義央は綱憲の父君である。
 色部又四郎は、何事もなかったように自分の用向きを右源太に伝えた。
「ワシは、これより父/景光の喪に服すため米沢へ参らねばならん。」
 右源太は、色部又四郎の言葉に平伏する。
「右源太。討ち入りがあったとしても、上杉から兵は出せぬぞ。」
― 聞かなかったということか・・・。―
 上杉から兵は出せぬことはわかっていた。だからこそ、義央の命を狙うのだ。  “兵は出せぬ”と実際に言葉にして聞かされると、右源太といえども無念さが込み上げてくる。
「万が一討ち入りあったならば、軒猿だけでことを防がねばならん。」
 色部又四郎の言葉に、右源太が追い詰められたように顔をしかめる。
「最早なす術はないのだ。その時は、せめて大石だけでも亡き者にせよ。」
「畏まりました!」
「年が明ければ、殿が吉良様を米沢に迎い入れることになっておる。そうなれば、我ら上杉の勝利じゃ。」
 右源太は、色部又四郎の密命を受け屋敷から立ち去って行く。
 部屋の障子を開けると眩しい日差しが差し込むが、色部又四郎の胸中は暗く重い悲しみにに覆われていた。
― すまぬ。右源太・・・。―
 色部又四郎の肩が僅かに震えていた。

                  三
 
 米沢藩下屋敷内で、配下の荒生庄左衛門が右源太の帰りを待っていた。軒猿の名参謀にて、先代から右源太へと長きに亘って仕えている。数多の修羅場を掻い潜ってきた手腕は、右源太や配下の者たちからも信頼されていた。
 庄左衛門は右源太の気配を察知し、平伏して入って来るのを待った。
「ここにおったのか・・・。」
「お帰りをお待ちしておりました。」
「そうか・・・。」
 右源太は、大きく溜息をついて庄左衛門の前に座った。
「その御様子では、やはり・・・。」
「当然だろう・・・。」
「・・・如何致しまする。」
 庄左衛門の問いに右源太は、何も答えなかった。眉間に寄せたシワが一層深くなっている。
「御頭・・・、まさか。」
「他に手立てはない。」
「下知もなく、おやりになると?」
 右源太は黙って頷いた。
「ワシ、一人で吉良様のお命を頂戴して参る。」
「それはなりませぬ。」
「事は隠密にやらねばならんのだ。配下の者は連れて行けぬ。」
 庄左衛門は、ジッと右源太の顔を見つめた。思い詰めた表情は、その意志の固さを表していた。
「しかし、吉良様には山吉様や小林様も付いていらっしゃいます。下手をすれば同士討ちにもなり兼ねませぬ。」
「やむを得まい。」
 役儀のために散ろうとする右源太の気持ちが、庄左衛門の胸を刺し貫く。
「庄左。長い間世話になった。」
 右源太は、立ち上がると庄左衛門に背を向けた。
 庄左衛門は、右源太の後頭部に手刀を打ち気絶させる。倒れた右源太を抱え、部屋の隅にそっと寝かせた。
「御頭。あなた様がお出になるのは、もう少し後でございますよ。」
 庄左衛門は、気を失っている右源太に微笑んだ。
「こちらこそ、お世話になりました。この役目、某が承ります。」
 障子を開けても、いつものような暖かい陽射しは差し込んでこなかった。外は雪が降って来そうな重く低い雲が立ち込めていた。

                  四

 討ち入りの日が近くなることを感じた多都馬は、義央に会いに本所吉良邸を訪れていた。
 表で名を名乗ると、そのまま義央の部屋まで案内された。
 義央は近習の者も一学さえも側に置かず、多都馬を部屋へ招き入れる。
「そちには、色々と苦労をかける。」
 義央は茶をすすりながら多都馬の労を労った。
「拙者は何も・・・。」
「この屋敷には山吉や小林もおるからの・・・。因縁深い事だが許せよ。」
「彼等も、命ぜられておらぬことはしませんよ。」
「大事ないか?ワシは、そちのここが気掛かりじゃ。」
 義央は、自分の胸を指さした。
「赤穂と吉良、双方の間に立ち苦しんだはずじゃ。」
「それは吉良様も同じでは?」
 義央は寂しそうに少しだけ笑みを浮かべた。
「そろそろか?」
 部屋から見える庭の風景を見ながら多都馬に尋ねる。
 義央は無言でいる多都馬の様子を窺う。
「これは、すまぬ。答えられるわけがなかったな。」
 多都馬は返事の代わりに頭を深々と下げた。
「しかし、よくぞここまで・・・。」
 義央は、多都馬の今までの働きをまるで見てきたかのように感心している。
「拙者は、ただの傍観者でございますれば・・・。」
「謙遜するでない。色部のうろたえ振りを見ていれば、その方の影働きがようわかる。」
「恐れ入ります。」
 義央が嬉しそうに笑う。
「何やら楽しげな御様子でございますな。」
「これで柳沢に一泡も二泡も吹かせると思うたのだ。そのように映ったのならば謝る。・・・すまぬ。」
 義央は上機嫌に話す。
「これは・・・。お心を察せず申し訳ござりませぬ。」
 多都馬は義央の胸中を思い遣って静かに頭を下げた。
「いらぬ気遣いは致すな、多都馬。」
 義央は柔和な表情で多都馬に言った。
「仇討ちなどなくとも、赤穂の面目が立つ方法はないものかと未だ思うこともございます。」
「多都馬。狂ったご政道を正すには犠牲は付き物じゃ。」
「しかし・・・。」
「多都馬よ。色部という男には気をつけるのだ。何事にも抜かりのない男ゆえの。」
 義央は多都馬にそう伝えると、外に控えていた一学を連れ部屋から出て行った。
「米沢藩江戸家老色部又四郎・・・か。」
 多都馬は、上杉の今後の出方に思惟を巡らせた。
―上杉にとって赤穂の討ち入りは阻止せねばならない。しかし、ここに至ってそれは不可能に近い。出来ることは、討ち入りの際に手薄になる大石の警護の隙をついて暗殺。後は・・・。―
 ある考えが思い立った多都馬は、部屋を出て行った義央と一学の後を追った。

                 五

 赤穂浪士達に討たれようと覚悟を決めている主の背中を一学は悲痛な思いで見つめていた。
― 何故、殿が討たれなければならんのだ・・・。―
 口惜しさが込み上げ、一学は袴を掴む手に力が入る。
「では一学、ワシは寝るぞ。」
 義央が寝所へ入ろうと障子を開けようとした時、一学が脇差を抜いて庇うように立ち塞がった。金属の弾ける音が闇夜に響く。
「何者か!」
 答える代りに数本の手裏剣が義央目掛けて飛んでくる。
 一学が、脇差で見事に弾き返す。
 庭の草木の中から、庄左衛門が凄まじい形相で襲い掛かってくる。
「殿、早く中へ!」
 一学が庄左衛門の斬撃を、二度三度と受け後退する。
「一学!」
 義央は、勢いに押されている一学を気にかけて叫んだ。庄左衛門の斬撃は、次第に一学を追い詰める。そして、力に任せ一学を蹴り倒すと義央目掛けて突進していく。
「殿――っ!」
 斬られると覚悟した瞬間、何者かが庄左衛門の斬撃を弾き飛ばして二人の間に割って入る。
「吉良様。お怪我ございませぬか?」
 それは、多都馬だった。
「大事ない。」
 多都馬は上杉方の次の一手を考えた時、義央の暗殺と思い立ち戻ってきたのだ。
「多都馬、ワシはまだ死ぬわけには参らん。」
「分かっておりまする。」
 体制を整えるため、庄左衛門は一度多都馬から離れた。庄左衛門は刀を正眼に構え、義央を捉えるように立っている。
 吉良家家中の者が騒ぎを聞きつけ駆け付けてくる。その中には、付け人の山吉新八郎と小林平八郎もいた。
「赤穂か⁉」
 新八郎と平八郎が、一斉に抜刀し臨戦態勢に入る。
「手を出すな、同士討ちだぞ。」
「なに?」
 庄左衛門の目は、真っ直ぐ義央へ向けられている。
「吉良様。御覚悟ーっ!」
 多都馬が、突進してくる庄左衛門の前に立ちはだかる。
「命を無駄にするな。」
 多都馬の声も庄左衛門には届かなかった。庄左衛門は多都馬の刀を上へ跳ね上げようと下段から斬り上げる。しかし、多都馬の刀は跳ね上がらなかった。斬り上げようとした刀は、そのまま微動だにしない。
 そして間髪を入れず多都馬の刀が、庄左衛門の体を突き刺した。庄左衛門は膝から崩れ落ち絶命した。多都馬は片膝をついて、見開かれたままの庄左衛門の目を閉じた。
「多都馬様!」
 一学が多都馬の許へ駆け寄った。
「早く吉良様を、御寝所へ・・・。」
「はい。」
 義央は振り返って多都馬に軽く手を挙げた。
 一学に付き添われ義央は寝所へ入った。
 多都馬は、これが今生の別れであると悟り義央の姿を脳裏に焼き付けた。

             六

 義央を狙った刺客を斬った多都馬は、屋敷の玄関へと歩き出した。
「多都馬様。」
 廊下を歩いていると後ろから声を掛けられる。
 振り返ると一学が小走りに近寄ってきた。
「先程は、殿の危ういところをお助け頂きかたじけない。」
「いや。」
「少々、時を頂きとうござります。よろしいでしょうか。」
「構わないが・・・。」
「一手お手合わせ願いたいのです。」
 多都馬は、一学に向かって大きく頷いた。
 一学は幼い少年のような笑顔を多都馬に見せた。
 多都馬と一学は道場に入った。
 一学は深く深呼吸をした後、木刀を手に取り構える。道場内は静まり返り、多都馬と一学二人の息遣いだけが聞こえる。
「今まで剣の道に限らず、様々なことをご教授頂きました。」
「何を申されるか。」
「いえ、武とは戈を止めるという春秋左氏伝の止戈(しか)()()という言葉。」
「兄上と我が師の受け売りだよ。」
「本当に心打たれました。」
 多都馬は目の前にいる将来ある若者が、大義のために死ぬかもしれないことが悔しくて堪らなかった。
 一学は木刀を正眼に構え目を静かに閉じた。
「参ります。」
 素早い動作で右左と打ち込んでくる一学。多都馬はこれを難なくかわし、一学の首筋に寸止めで木刀を当てる。
「やはり敵いませぬか。」
一学は何かをふっ切ったように晴れやかな表情を多都馬に見せる。
「多都馬様、これまでお世話になりました。」
 その一学の表情にかける言葉は見つからなかった。
 一学は、道場から去っていく多都馬へ深々と頭を下げた。空を見上げれば、今にも雪が降りそうな空であった。

              七

 多都馬は久しぶりに須乃と数馬と穏やかな夕食をとっていた。
 数馬は何やら考え事をしているらしく、並べられた膳に箸をつけていない。
「数馬。どうした?体の具合でも悪いのか?」
 数馬は多都馬が言い終えぬうちに、はっきりした物言いで話し出す。
「叔父上。安兵衛様たち赤穂の方々は、本当に吉良様のお屋敷に討ち入りされるのでしょうか。」
 数馬は真っ直ぐな目で多都馬を見つめていた。
「数馬は、どう思っておる。」
「私は、必ずや討ち入りすると思うております。」
 数馬は力強く答える。
「ならば、そのとおり赤穂の浪士たちを信じて待てばよい。」
「はい!」
 何か吹っ切れたように食事を取る数馬。ぞの数馬の目は一段と輝いていた。
「御免。」
 裏門の方から声が聞こえ、須乃が出向いて行く。
 そこには、清々しい表情の安兵衛が立っていた。
 須乃の後ろには、いつの間にか多都馬がいた。
「ま、入れ。」
 多都馬と安兵衛は、縁側に腰掛ける。
「お寒くはありませんか?」
 須乃は安兵衛に声をかける。
「いや。」
「須乃。酒を頼む。」
「はい。」 
 二人は縁側で須乃が用意した酒を、言葉も交わさず飲んでいる。
 須乃と数馬は、二人の光景を離れた所から見ていた。
「叔父上と安兵衛様は、何故ずっと黙っておいでなのでしょう。」
 幼い数馬には不思議な光景に見えたに違いない。
「いいえ、たくさんお話しされていますよ。」
 口に出す言葉よりも、心で交わす言葉の方が伝えやすい時もあると須乃は感じたのである。
 暫くして安兵衛は立ち上がり多都馬に向き直る。
「世話になった。」
 黙って頷く多都馬は、去っていく安兵衛の背中を闇に覆われるまで見ていた。

                 八

 その日は朝から雪が降っていた。内蔵助は川崎にある平間村から、江戸・日本橋の旅館・小山屋に移りここを拠点にしていた。
 多都馬は内蔵助から呼び出され、迎えに来た孫太夫と共に小山屋へ向かっていた。年の瀬ということもあってか、小山屋は旅人で賑わっていた。多都馬は、孫太夫に促され内蔵助のいる旅館の離れに入っていく。
「多都馬殿。」
 内蔵助は、入ってきた多都馬に頭を下げる。
「お呼び出し、申し訳ござらん。」
「拙者に何か用でも・・・。」
「いかにも。」
 内蔵助は、木箱から数本の巻物を手に取り多都馬に見せた。
「これは?」
「瑶泉院様より、お借りいたした金子の受払帳と、京より今日までの日々を綴った日記でござる。」
 多都馬は、仇討決行に関する書類であろうと気づく。
「日記とは風流でございますなぁ・・・。」
「それらを南部坂の瑶泉院様のところへお届け願いたい。」
「私のような者でもよろしいのであれば・・・。」
 快く引き受けた多都馬に対し、内蔵助は心苦しそうに視線を下げた。
「我等の誰かでも良いのだが・・・。」
「私は暇人でございます故、お気になさらず。」
「かたじけない」
 内蔵助は、多都馬に向かい深々と頭を下げた。
― 何事にも慎重な男だ。―
 多都馬は、内蔵助の事を慎重に運ぶ思慮深さに感心していた。討ち入りに際し、少しでも人手を減らしたくないのだ。内蔵助からの預かりものであれば、途中何者かの襲撃を受け略奪されてしまう危険が生じる。襲撃者に対応できる腕を持ち、かつ信用できる人間はそういないものだ。
「瑶泉院様の下へ必ずお届けいたします故、ご安心ください。」
「お頼み申す。この内蔵助の使いであると申して頂ければ、落合与左衛門と申すものが出て参ります・・・。」
「落合殿が・・・。」
「与左衛門を御存知ですか。」
「はい。昔、落合殿の前で恥ずかしきことをいたしまして・・・。」
 頭を掻きながら呟く多都馬に、内蔵助は思わず笑ってしまう。
「これは失礼いたしました。」
 受払帳と巻物を風呂敷に包んだ内蔵助は、おもむろに立ち上がる。
 内蔵助は部屋の障子戸を開け、空を見上げる。ゆっくりと舞い落ちてくる雪は、時の流れを忘れさせる。
「よく降りますなぁ・・・。」
 多都馬と内蔵助は、小山屋の庭を眺めている。
「積るかもしれませぬ・・・。」

                 九

 多都馬は、南部坂にある三次浅野家屋敷へ向い歩いていた。三次浅野家は瑶泉院の実家である。
 多都馬の傘からは、時折積もった雪が落ちてくる。
 門前にて付人/落合与左衛門の名を出すと、内蔵助からの知らせを待っていたかのように時を置かず与左衛門が出てきた。
 与左衛門は御前試合の折、乱心した長矩に心の一方を放った多都馬を知っていた。
「黛殿。お久しゅうござります。」
 与左衛門が懐かしそうに話しかけてくる。
「覚えてくださり光栄に存じます。」
「忘れようはずがありません。」
 与左衛門は笑顔で話をした。
 乱心した長矩から須乃を救った一件を覚えていたのだ。
「自慢できることではござらぬ故、どうか御勘弁願いたい。」
 二人は門前で笑い合った。
「降りしきる雪の中をご苦労でござった。」
「いえ、さる御方より頼まれ事なれば・・・。」
「では、お預かり物を頂戴仕る。」
 多都馬は、屋敷の物陰からこちらを窺う人間の気配を感じる。
「こちらは、金子の受払帳と日記でございます。」
「かたじけない。」
「では、拙者はこれにて・・・。」
 与左衛門は多都馬から巻物を受け取り、深々と頭を下げ門を閉めた。
 多都馬は、気配を感じた物陰を凝視する。
 三次浅野家屋敷の門を見上げ、辺りを警戒しながら来た道を歩いてく。
 降り積もる雪には、多都馬の足跡だけが残っていた。

                 十

 その夜、静まり返った屋敷内に(うごめ)く人影があった。長矩の仏壇周辺を物色している何者かがいた。瑶泉院の側近である戸田《とだ》局《のつぼね》が物音に気づいて入ってくる。仏壇を物色していたのは侍女だった。
「何をしている?」
 戸田局が問い質そうと詰め寄ると、巻物を掴み庭へ逃げ出す。
「曲者じゃ!」
 屋敷内から、一斉に侍女や付人の侍が出てくる。女間者は、それらを難なくかわし屋敷の庭の奥へと逃げていく。
 落合与左衛門等付人の侍が、女間者を追い詰めていく。
「曲者!観念せい!」
 女間者は、与左衛門等の白刃を潜り抜け塀の上にヒラリと舞い上がる。
 その時、塀外より声が聞こえる。
「逃がさんぞ。」
 驚いて女間者が振り向くと塀外に多都馬が待ち構えていた。
「手に持っておるものを返せば、この場は見逃してやる。が・・・しかし、あくまでも逃げようとするならば容赦はせぬ。」
 女間者は逃げようとするが、心の一方を繰り出した多都馬に動きを封じられてしまう。体勢を整えようと足掻くが、あえなく塀の上から落ちていった。
 与左衛門は落ちてきた女間者の喉元に刀を当てる。
「曲者、観念せい。」
 女間者は観念したのか、次の瞬間に舌を噛み切って息絶えた。
 落ちた勢いで手放した巻物は、雪で覆われた邸内に広がっていた。そこには、内蔵助を始めとする浪士たちの血判がしたためてあった。その巻物を見て驚愕した戸田局は瑶泉院を庭へ呼ぶ。
「瑶泉院様!」
「何事ですか?」
 瑶泉院が、騒ぎを聞きつけ外へ出て来る。
「先程、亡き長矩様のお仏壇を荒らす者がございました。」
「何者か!」
「恐らくは、上杉か吉良の密偵では・・・。」
「その者は如何した!」
「はい。内蔵助殿が用意されておった護衛の者が、屋敷外より打ち据えた由にございます。」
 安堵した揺泉院は大きくため息を着いた。
「それよりも、あれをご覧ください。」
 瑶泉院は、戸田の局が指さす庭に広がった仇討の血判書を見る。
「大石殿がいよいよ・・・。」
「内蔵助・・・。」
 瑶泉院を始め、付人や侍女たちの嗚咽が多都馬の耳に聞こえてくる。
 塀外より中の様子を聞いた多都馬は踵を返し三次浅野家屋敷を後にした。

                十一

 元禄十五年十二月十四日、浪士たち各々が残していく家族と最後の別れをしていた。金右衛門は、お艶の実家である政吉宅に来ていた。
「義父上様。本当に今までかたじけのうございました。」
 政吉は涙をこらえて言う。 
「帰ってきたら厳しい大工の修行が待っているぜぃ!」
「はい。心得ております。」
 続いて側にお艶を呼び、彼女を強く抱きしめる。
「お艶。そなたは私の一番の宝です。」
「九十郎さん。」
 お艶は抱きしめられながら、金右衛門の温もりを全身で感じていた。
「九十郎さん。これ、私だと思って・・・。」
 お艶は、自分の髪を一束切って金右衛門に渡す。
「かたじけない。」
 金右衛門は、再びお艶を抱きしめた。
― この温もりを忘れるものか。―
「本当にしあわせだった。」
 金右衛門は、二人を暫く見つめ討ち入り装束に身を固め出て行った。
 政吉が泣き崩れるお艶を抱き起こし言う。
「武家の妻になったんだろ?いつまでも泣くんじゃねぇ!笑って送り出すもんじゃねーのか。」
 そういう政吉の目にも涙が溢れていた。
 お艶は降り積もる雪の中を駆けていく金右衛門の背中を、いつまでいつまでも見つめていた。

                 十二

 潮田又之丞も妻/ゆう(・・)に今生の別れをしていた。ゆう(・・)とは形式上、数ヶ月前に離縁していた。ゆう(・・)の父/小山源五左衛門は娘のために脱盟していた。源五左衛門の脱盟は、又之丞たっての頼みであった。又之丞亡き後、ゆう(・・)の面倒を見ることと新たな嫁ぎ先を探すことを頼んでいたのだ。
「すまぬ。」
「このような時に何を申されるのですか・・・。」
 ゆう(・・)は又之丞の身支度を整えながら言った。
「公儀を欺くためとはいえ、ワシは同志たちへの文に義父上のことを悪しざまに罵ってしまった。後の世の者が見たら、何と無礼な奴よと蔑むであろうな。」
「そのような事・・・。」
 ゆう(・・)は、必死に(かぶり)を振った。
「父は申しておりました。最後まで旦那様についていけ…と。」
「それはならん・・・。」
「何故ですか。」
 又之丞を見つめる、ゆう(・・)の目に涙が溢れた。
ゆう(・・)にはもっと幸せな人生を送って欲しいのだ。」
 又之丞は、熱い眼差しでゆうを見つめている。
「よいか、必ずお義父上のところへ帰るのだ。そして、ワシの分まで生きるのだ。」
 ゆう(・・)は、涙で言葉を発することが出来ない。
「ワシは果報者であった。束の間ではあったがそなたと夫婦となり、幸せな日々を送れたのだから。」
「旦那様。」
 又之丞は、ゆう(・・)の頬を伝う涙を指で拭った。
「義父上のもとへは、ご本家の御牧殿が送り届けてくれるはず。黛殿と懇意にしておられる方故、何も心配はない。」
 又之丞の住まいの戸を叩く音がする。
「御免。」
 戸を開けると御牧武太夫が立っていた。
「御牧殿。あとを・・・ゆう(・・)を頼みます。」
「心得た。・・・御武運を。」
 又之丞は、ゆう(・・)へ今までの気持ちを込めた視線を送り、浪士たちが待つ集合場所へ駆けて行った。
 潮田又之丞の妻/ゆう(・・)は、この御牧武太夫と再婚し広島で七十六歳の生涯を閉じている。
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