水もしたたる善い神様 ~沈丁花の記憶~

九、






   九、




 まだこの神社から矢鏡を帰して欲しくない狛犬が悪戯でもしたのだろうか。

 予想外の雨がしとしとと降り始めた。小雨なので走って帰ることも出来たが、矢鏡は「少し待つか」と言い、拝殿の中への入っていったので、紅月もその後についていく。
 穴が空いている木製の屋根から雨が落ちるが、それをさければ、雨宿りには十分すぎる場所だった。雨が肌に張り付いたからだろう。少し肌寒さを感じ始めたので、紅月は自分の両手を抱くようにして座った。


 「しばらくしたら止みそうな雨だな」
 「そうですね」
 「家には戻るのか?」
 「実家には帰らないです。帰ると話しをしてないので」
 「そうか」


 そう言うと、矢鏡は紅月の肩を抱き寄せ、自分の片腕の中にしまってしまう。紅月は驚き、彼の顔を見上げる。彼は少し恥ずかしそうにしながら「寒いのだろう?」と言った。けれど、その後すぐに苦笑いに変わる。


 「俺が抱いたとしても、余計に寒いだけかもしれないが」
 「そんな事ないです。温かいです」


 体感的には寒いのかもしれない。
 けれど、心の中がポカポカするのだ。夫婦となり、一緒に寝る時も手を繋ぐときも、冷たいはずの彼の感触とは違い、心が陽だまりの中にいるように温かくなるのだ。
 ずっと避けていた人との関わりが、こんなにも愛しいものだと初めてその時に知った。家族と過ごす時間とは少し違う、愛しい人と共にいる甘くて温かい、尊い時間。
 それは、矢鏡だから感じられる感情だというのも、紅月にはわかっていた。


 まだ素直に甘えるの恥ずかしさがあったが、今日だけは「寒いから」という理由で、自分から彼に近づけるのではないか。自分のあざとい感情が更に羞恥心を感じさせるが、それでも紅月は矢鏡の肩に自分の頭を近づけようとした。その時に、予想外の音が神社内に響いた。


 「おまえ、こんな所で何をしている!?」
 「ッ!?」



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