水もしたたる善い神様 ~沈丁花の記憶~



 「ご、ごめんなさい。初対面の人にあんな事を言うなんて。理由も聞かないなんていけないことね」
 「いや、別に気にしてない。それに俺が悪いんだひ」
 「ううん。……最近、怖い事があって、少し不安になったりイライラしたりして、あなたに当たってしまったんだと思う。だから、ごめんなさい」
 「いい。それに、膝から血が出てる。傷口から悪いものが入るといけない、水で流す」
 「これくらいなんともないよ」
 「俺が仕掛けた罠のせいで怪我したんだ。手当ぐらいする」
 「……わかった」


 矢鏡が彼女に背を向けて歩き出すと、女も後ろからついてくる。山道にあまり慣れていないのか、たどたどしい足取りだ。家まではそこまで距離はないが、離れないようにいつもより、ゆっくりと歩くようにすると、後ろの女が「ありがとう」と小声で言った。手当をしてくれる事か、歩調の事なのかはわからないが、驚いて後ろを向くと、先程とは違った穏やかな笑みを浮かべていた。それを目にした瞬間、矢鏡はすぐに顔を逸らした。
 自分に笑顔を向ける人間などいるはずもない。幼い頃、両親が笑っていてくれたかもしれないが、それでも最後は汚物を見るように軽蔑する視線で自分の事を見ていたのだ。両親にも村人も、自分を見ようともしない。
 それなのに、どうしてこの女は笑顔を向けて、感謝の言葉をつたてくるのか。

 矢鏡は自分の頭に触れて気づいた。そこにはいつも被っている頭巾がある。
 あぁ、この女は自分が銀の髪をしているのに気づいていないのだ。もしこの頭巾を外して、黒とは違う銀色の髪を見せたらどういう反応をするのだろうか。
 考えるだけ無駄だ。今まで、逃げられるか恐れられるかのどちらだったのだ、この女だって例外なく同じようにするだろう。それならば、怪我の手当が終わったらすぐに帰ってもらおう。
 そう矢鏡は思った。


 女には縁側で待っていてもらい、桶から水と比較的綺麗な布を持ってきた。座っている女の左膝がすりむいて血がにじんでいるので、そこにゆっくりと水をかけ、汚れが落ちたのを確認した後に布で膝を覆った。
 その時に改めて女の恰好を見ると、綺麗な花が描かれた着物はとても鮮やかで、山の中が一気に春になったように思えるほどだった。肌や髪も艶があり、結んでいる髪の簪も見たことがないキラキラしたもので作られている。一目で上等品だとわかる。きっと、この女は身分が高い親の元で生まれたのだろう。
 そんな人間と関わるとろくなことがないのは、わかっている。早々に立ち去って貰わなければいけない。


 「終わった」
 「あ、ありがとう。ここまでの怪我じゃないのに」
 「これしか道具がない。気を付けて帰れ」
 「ね、ねぇ。あなたはここで暮らしているんでしょ?」
 「そうだが」

 早く帰って欲しかったが、女は腰を上げようとしない。「早く帰れ」とも言えずに、矢鏡は仕方がないので、その質問に答える。それが1番の方法だと思ったからだ。


 「蛇神様ってこの山のどこにいるかわかる?」
 「へ、蛇神?」

 
 全く考えもしなかった言葉が出てきたので、矢鏡はぽかんとしてしまう。その様子を見て、矢鏡が何も知らないとわかったのか「そっか、知らないか」と残念そうに項垂れた。けれど、またすぐに顔を上げて矢鏡の方へと視線を向ける。



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