水もしたたる善い神様 ~沈丁花の記憶~

十九、





   十九、




 昨晩、早く寝たからなのか、お経が効いたのか、はたまた矢鏡が作った朝食のおかげなのか。
 紅月は顔色も大分良くになり、この日は弁当屋へ出勤していった。今日は何が何でも行かなければいけない、と言っていたので忙しい日なのだろう。
 紅月は矢鏡が作って置いた不格好なおにぎりを持って出かけて行った。また、いつもの時間に迎えに行かなければな、と思いながら見送った。が、矢鏡もその後すぐに部屋を後にした。

 人通りが多い道を、ぶつかる事を気にせずにゆっくりと歩く。人間とぶつかる事はないし、人間は何故だか本能的に矢鏡に道を譲ってくれるのだ。混雑している所ではさすがにそれはないが、実体のない矢鏡の体は透けるているので、すり抜けてしまうのだ。だが、矢鏡を認識すれば触れられる。そんな便利なのか、そうではないのかわからない微妙な体だった。

 歩きながら、矢鏡は懐にしまってあるものを、そっと取り出す。
 古びれた布に包まれたものは、割れた鏡であった。割れたところは鋭利な刀のようなっている。けれど、この世界の鏡のように本物と同じような世界を映る者ではない。その鏡はぼんやりと写すだけであるし、ひび割れて何をうつしているのかもわからない。そんな役立たずに思える鏡も、矢鏡にとっては大切なものだった。

 人間だった矢鏡が、両親に捨てられた時に渡された荷物の中に紛れていたのが、母親の手鏡であった。大きめの鏡であり、母親は毎日それを拭いてから身なりを整えており、大切に使っているのを幼い矢鏡はいつも見ていた。母親の宝物なのだろう。そう思っていた。そんな鏡が荷物に入っていたのだから、矢鏡は驚いた。大切なものを、化け物扱いした子どもに渡すはずもない。きっと、紛れ込んでしまったのだろう。そう思って返しに行こうとも考えたが、母親は戻って来た矢鏡を見たら嫌な気持ちになるはずだ。そう思い、黙ってそれを受け取る事にした。それ以来、矢鏡はその鏡が宝物となった。母親は気持ちが病んでしまう前は、矢鏡のことを深く愛してくれていたし、大切にしてくれていた。もちろん、父親もそうだ。だからこそ、少しでも優しい思い出に浸りたい時にそれを見つめていた。

 けれど、その鏡は割れてしまった。
 そう、あの巨大な白蛇と戦った時、矢鏡は蛇に体当たりされて、ふっとばされたのだ。その際、懐にしまっていた鏡は割れた。けれど、その鏡が矢鏡を救ってくれたのだ。




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