白衣とブラックチョコレート
(ああ……消えてしまいたいな……)

雛子は暗い海の底にどんどん沈んでいく夢を見た。

水面の光が遠く小さくなって、手を伸ばしても二度と這い上がれない。

(全然駄目だ……このままじゃ駄目なのに……)

足掻きたい。でももう疲れた。このまま誰の目も届かない場所へ消えてしまいたい。それなのに。


唐突に、遠ざかっていた光が目の前に溢れた。



「んっ……」



目を開けると、カーテンの隙間から差し込んだ光が朝の訪れを知らせていた。

そして。

そこは見慣れた自室だった。その中に、絶対に有り得ない人物の姿。その男が伸ばした手は、何故か雛子の腹部に触れていた。

「あ……ゆ、め……?」

「ん、おはよ、ひなっち」

それは、あまりにもいつも通りの彼。

「わっ……さっ、桜井さんっ!?!?」

反射的に飛び起きる。その男、桜井恭平は特に狼狽えることもなく、普段通りの様子でこちらをチラリと見やった。

「別に、服がはだけてたから直してやっただけ」

その声音に、苛立ちの色は見えない。そのことにほっとすると同時に、この状況が理解できず雛子は目を瞬かせる。

「あ、ありがとうございます……? いや、そうじゃなくて……」

何故自分の部屋に恭平がいるのか。

あのあとどうやって帰ってきたかも思い出せない。

混乱する雛子をよそに、恭平はおもむろにベッドの端へと腰をかけた。

「……それにしてもすっげーな、それ」

一瞬何のことか分からず、雛子は恭平の視線の先へ目をやる。

「……? あ、そ、それはっ」

テーブルの上に散らかったままの、エナジードリンクの缶が数本。それにエネルギー補給のゼリーやプロテインバーの空き袋。

(やばいっ……! 料理はおろか掃除もできないめっちゃズボラな女だと思われてるっ……!)

まさか恭平が部屋に来る想定などしておらず、頬が羞恥に熱くなる。

「……悪かった」

「えっ……」

突然ぽつりと呟かれた言葉。何故恭平が謝るのか、理由が見当たらず沈黙していると、彼が言葉を続ける。

「……昨日顔色が悪いことは朝から気付いていた。まさか倒れるまでとは思っていなかったが……。気付けなくてすまない。オーバーワークなのは俺の責任でもあるからな」

(倒れた? まさかそれで夜の間看病してくれてたのっ……!?)

恭平の謝罪の理由に、雛子は慌てて首を振る。

「そ、そんなっ! 桜井さんが謝るようなことは全くなくて、私がっ……痛っ……!?」

激しく首を振った途端、全身に鈍い痛みが走った。

「大丈夫か? 熱はなさそうだが……」

ふらついてベッドから転げ落ちそうになったところを恭平が抱える。

「すみません……。薬箱、出していただいても良いですか……? そこの、棚の一番上の……」

「これか」

恭平は雛子が指し示す箱を手に取り、続いてキッチンから持ってきたミネラルウォーターと共に渡してくれた。

雛子は受け取った箱からいくつかの薬を取り出すと、水で一気に流し込む。

「ずっとあんなもんばっかり食ってたらそりゃ倒れるだろ……」

飽きれたような口調の恭平。

それを言われてしまうと、言い返すすべがない。

「だ、だって最近は忙しくて……図書室に入り浸りで食事の時間も取れないことが多くて……」

「……図書室?」

言い訳を並べてみると、恭平が怪訝な顔をする。

「はい、病院の研修棟併設の図書室です……。あそこなら参考書もたくさん揃ってるし、パソコンでカルテも開けるので……」

同期にその存在を教えてもらってからと言うものの、雛子は勤務が終わるとすぐに図書室へ行き参考書とカルテに目を走らせていた。

勤務後から夜遅くまで勉強したあと、一度帰宅すればまだ良い方だ。時には勉強しながら寝落ちし、そのまま朝を迎えてしまう日もあった。

「朝は勉強してから、受け持ちの情報収集までして出勤してたんです」

雛子はここ最近の状況について白状した。

「……彼氏じゃなかったんだ」

「か、彼氏?? 何の話ですか……?」

私の話聞いてました? と雛子。

「いや、なんでも」

それだけ言うと恭平はもう一度キッチンへ行き、今度はトレイに器を乗せて戻ってきた。

「少しで良いから胃に入れとけ」

湯気の立つそれは、出来たての粥だった。

「うわ、お粥……! 美味しそう……! これ、桜井さんが……?」

「おう、勝手にキッチン借りたぞ」

そういえば昨日は何も食べないまま寝てしまった。

(っていうか、気を失っちゃったみたいだし……)

久々にまともな食事の匂いを嗅いでいるだけで、少しだけ食欲も湧いてしまうから不思議だ。

「ありがとうございます! お粥なんて自分じゃ作らないから、子どもの時以来かも……」

雛子が感動している間に、恭平はレンゲに一口分を掬い取りふぅふぅと冷ましていた。

「はい、あーん」

「……いや、それは自分で食べられ、むぐっ」

断る前に口にレンゲを突っ込まれる。

「お、おいひいです……」

恭平は雛子の飲み込む様子を見ながら、毎回適量をベストタイミングで口に運んでくれる。

さすがは仕事のできる看護師だ。雛子はまるで自分が入院患者になったような気分を味わう。

(患者さん達はこうやって、体調が悪くて満足に食事も取れない人がたくさんいるんだよね……。私にとっては非日常なことが、もうずっと続いて当たり前になっている人達もいる……)

雛子はふと、翔太のことを思い出していた。

彼は今も、病院のあの一室の中で点滴に繋がれながら過ごしている。


嫌だから逃げる、それができたら翔太達患者はどれほど良いだろう。


「ほい、食べ終わったから片付けるぞ」

「ん、ご馳走様でした」

やがて空になった器と飲み終えた薬のシート、棚から取り出した薬箱を恭平がテキパキと片付け、雛子を寝かせて布団まで掛けてくれる。

環境整備まで抜かりがない。

(至れり尽くせりだなぁ……)

そんなことを考えながら恭平の方を見ると、バチリと目が合ってしまった。雛子はそこで初めて、恭平が雛子の顔をまじまじと見つめていたことに気が付く。

その表情に、雛子はきょとんと首を傾げた。

恭平が何か、問いかけようとしているように見えたからだ。

「桜井さん……?」

しばらく待っても、恭平は無言のままだった。珍しくも言葉を選んでいるかのようだったが、結局恭平から何か尋ねられる事はなかった。

「……ん、いや。何でもない。そういえば納涼祭の準備の方は大丈夫か?」

「あっ!!」

その単語に、雛子は再び勢いよく飛び起きた。薬が効いてきたせいか身体の痛みもなく、そのままベッドを降りて部屋の隅に置いておいた紙袋を持ってくる。

「今日のお休みは元々これを作ろうと思ってたところだったんです。一昨日下準備までしておいて良かったぁ〜……」

毎年の納涼祭では新人がオリジナルうちわを制作することが恒例になっているらしい。今年は雛子しかいないため作業は多いが、その分独断でできるので気は楽だった。

うちわの骨部分は既に病棟費で購入したものを受け取っていたため、あとはフリーソフトで適当にデザインした絵柄の紙を貼り付けるだけだ。

「ふーん、意外とちゃんと準備してたな。てっきり放ったらかしてるかと思ってた」

「そ、そんなことないですよぉ! 最近は翔太くんのことと納涼祭のことでもう頭がパンク寸前に……」

恭平の物言いに雛子は頬を膨らませる。しかしその言葉は尻すぼみだ。

同時にこなそうと奮起した結果、仕事が疎かになりインシデントを起こした上、倒れて恭平に迷惑をかけてしまった。

「よし、んじゃ始めるか」

雛子がしゅんとしているのを察してか、恭平が作業に着手する。紙袋からうちわを取り出し、ノリを塗って印刷した用紙を貼り付けていく。

「さ、桜井さん、私がやりますからっ」

慌てて止める雛子だったが、恭平は聞こえないふりで作業を続けていた。時々「お、この柄良いじゃん」などと口にしながらも、その手は動かし続けている。

雛子も観念して、素直に手伝ってもらうことにした。恭平がさっさと片付けてくれたテーブルに向かい、二人で黙々とうちわ作りを行う。

(いつもの優しくて、ちょっぴり掴みどころのない桜井さんだ……)

昨日の絶望的な気持ちが、少しだけ晴れたような気がした。

(よーっし! なんかちょっと元気出てきた。明日からまた頑張らないと!)

我ながら単純な性格であるが、ポジティブになれるならそれに越したことはない。

「……桜井さん、実は昨日、翔太くんを怒らせちゃったんです」

雛子は手を動かしながら、唐突に切り出した。恭平は黙って雛子の話を聞いている。

「私、やっぱり見抜かれてました。翔太くんに暴言吐かれても、相手は子どもだし、患者だし、しかもターミナルだし……優しくしなくちゃって思ってたこと」

翔太の悔しそうな舌打ちを思い出す。

「私、全然翔太くんに向き合えてなかったんだと思います。あの子はただ甘えたり、優しくされたいわけじゃない。もっと、全力でぶつかってくるような、そういう相手を望んでいるんじゃないかって思うんです」

雛子の言葉に、恭平は一つ頷いた。そしていつものように伸ばされる大きな手。

「そう思うなら、そうやってみろ」

小さい子にするように、そっと雛子の頭を撫でる。

「はいっ!」

「ん、良い返事」

弾んだ声で返事をする雛子に、恭平は珍しく破顔してみせた。











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