ここは確かに、空だった。
屋上へと続く重い鉄扉が軋んだ音を立てて開く。

そこにはいつも通り、悟が夕焼けを眺めながら塗装の剥げたベンチに腰かけていた。まるで夕日以外の何かが、空に見えているようだと感じた。

橙に照らされた黒髪と白い肌が、今にも消えてなくなってしまいそうだった。

鉄扉の音に気付くと、悟はゆっくりと振り返り、そしてあかりの姿を認め笑みをこぼした。

「よう、遅かったな」

あかりはいつものように悟の左側へ腰を下ろす。いつものように座っては見たが、いつものような穏やかな気持ちにはならなかった。

日の入りは、だいぶ早くなってしまった。

「おい、あかり。なんか考えごとしてるのか? さっきからぼーっとして」

気が付くと、悟に下から顔を覗かれていた。目を見開いてやや仰け反る。

今、何の話をしていただろうか。悟の銃口のような瞳に飲み込まれてしまいそうになる。

「ごめん、なんだったっけ」

あかりはやっとのことで笑みを作ってみるが、悟はその端正な顔をしかめ納得できないと言った表情になる。

「何だよ、今何考えてたか、言ってみ?」

言葉はそこまで強くなかったが、有無を言わさないニュアンスが込められていた。

「悟が……」

あかりはしばらく口籠ったが、やがてぽつりと呟いた。

「……悟が、どうして入院しているのか、気になっただけ」

吸い込まれまいと抗うかのように、あかりは悟の瞳を睨みつけた。その言葉には答えを求める意思が含まれていた。

「ああ……そっか、そうだよなぁ。言ってなかったか」

悟は一瞬不意を突かれたような表情を浮かべていたが、あかりの言葉の意図が分かると納得したように頷いた。

「俺さ、重い心臓病なんだわ」

答えはあまりにも簡潔で、簡単に心を抉った。

あかりは唇を真一文字に結んだまま、表情を動かさないよう力を入れた。

「心臓移植しないと助かんないって。でも血液型とかの関係でドナーも中々見つかんなくってさ」

「……」

悟の声は何かをふっ切っているかのように明るいものだった。その明るさが、悟はもうとっくに決心しているのだと感じずにはいられない。

沈黙の中を生温かい風が吹き抜け、心情と相まって汗ばんだ身体を余計不快にさせる。

「いなくなる奴ってのはさ、自分自身のことについては、案外もう諦めが付いてるんだよな。でも気になる誰かがいると、そいつが自分のいない世界をどうやって生きていくのか、そればっかりが気になるんだ。俺の隣にいた奴は……今度は、誰の隣で生きていくのか、そればっかり。いつまでも俺のことを想っていてくれれば良いなって思う反面、早く俺の代わりになる人を見つけて幸せになってほしいって思ったりもする。体調が良くて前向きな時には、『俺のことなんか忘れて幸せになれよ』なんて調子良いことも言えるけど、そうかと思えば、『一生俺のこと忘れられないように死ぬまでに思い出作りまくってやる!』 って悪あがきを企んでみたり。本当、どうしようもないよな」

身を硬くして黙りこくったままのあかりをよそに、悟は一気にそこまで言うと声を上げて笑った。そこには僅かながら諦観の念も見え隠れしているが、本当に心の底から楽しげな笑いだった。

あかりは悟の言葉を反芻し、身体に入れていた力をゆっくり抜いた。

「今……そんな風に、誰かのこと想っているの?」

あかりの問いに、悟はきょとん、とした表情を見せた。そして再び空を見つめる。

「……さあな」

悟はあかりに悪戯な笑みを向けた。

「でも、死ぬのが分かっていて、形に残る物を送るのはセコイよな?」

その問いかけの意味は、あかりには分からなかった。理解する前に、悟は両腕を上に伸ばして伸びをすると、立ち上がった。

「さてと、そろそろ病室戻らないと、今日の担当佐々山さんだから怖ぇんだよなぁ。愛子ちゃん、なんて名前は可愛いくせに、うっかり長く留守にするとすごい勢いで怒られるんだよな、俺患者なのにさ」

あかりを気遣ってか明るく話す悟に、あかりも薄く笑みを浮かべた。

「じゃあ、そろそろ戻らないとだね」

「おう」

悟も頷く。あかりはスマホを取り出すと時間を確認した後、悟と同じように立ち上がってスカートの裾を直した。

「あたしも、用事があるから帰ろうかな」

そして悟の方に向き直り、笑って手を振った。

「じゃあね!」

それだけ伝えると、あかりは悟にくるりと背を向けた。錆ついた鉄扉を開けると再び手を振って扉を閉めた。あかりは口元を真一文字に戻して階段を駆け下りた。



いつかは失うというのに、何故大切なものを増やしてしまうのだろう────。








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