ひと夏の、
「彼方」

静かに呼びかける。彼方は返事をしない。
別に返事を期待していたわけじゃないから、私は構わず続けた。


「ペディキュアって、学校始まると落とさなきゃいけないし、サンダル履いた時にしか見えないコスパの悪いお洒落なの。でも私、毎年夏になるとペディキュアが塗りたくなるんだ」

「……なんの話さ」

彼方はくぐもった声を上げる。
私は鮮やかな青が入った小瓶を玩びながら、彼方に尋ねた。

「ねぇ彼方、なんでだと思う?」

彼方が振り向く。原稿用紙が耐え切れずに飛ぶ。
風に煽られた髪が、頬を撫でた。

「分からない」

正直な彼方に、私はくすくすと笑い声を漏らす。
彼方は不満そうに唇を尖らせたけど、答えを教えるつもりは初めからなかった。


彼方は多分、私がペディキュアを塗る本当の理由を知らない。
これからもきっと知らないまま、変わらず恋に泣くんだろう。

「変なこなっちゃん」

原稿用紙にまみれて、彼方は言う。
そして私につられたように、くすくすと笑い出した。


その笑顔が、私は何よりも眩しかった。
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