可愛すぎてつらい

2.可愛すぎてつらい

 聞こえてくるはずの扉を開ける音はおろか神経質そうな靴音さえ聞こえずに、振り返ろうとした途端腕が引かれた。

「キャッ!」
「……あ、すまない」

 とっさに上げてしまった声に被せるように謝られ、珍しいこともあるものだとフレッドを見上げれば、近くに彼の顔がありドキリと音を立てた。

 片手で足りるほどだが妻としての務めを果たしたことだってある。チェルシーはあまり好きではないが、そのときを思い出させるような近さだったので内心慌ててしまった。

「フ、フレッド様……?」

 しかし彼の目線はチェルシーになく、彼女の手元に注がれていた。そこで漸くチェルシーは手の中の存在を思い出したのだった。

「それをどこで?」
「……あ、あの!」
 チェルシーの困惑した声があまりにも近いことに漸く気づいたらしく、掴んだままだった手を慌てて離した。
「す、すまない」
 あ、噛んだ。いつも用意したような台詞を吐くフレッドらしくない。思わず吹き出しそうになるが、彼の普段の仏頂面を思い出し何とか耐えた。
「いえ、お気遣いなく」
「……その君の持っている手帳は私のだ」
「あら、フレッド様のものでしたか。庭のベンチに落ちてましたから、ハリスに持って行けばどなたのか分かるかと思ったのです。雨も降りそうでしたし……」

 そう言って差し出せば彼はそっと受け取り、小さく「そうか」と呟いた。

「持ち主が見つかって良かったですわ。それではいってらっしゃいませ」
 なるほどフレッドの先ほどの行動は、手帳を探していたものだろうと腑に落ちた。ハリスを探す手間が省けたわ、と踵を返したところで、背後から「チェルシー!」と、いつもの抑揚のない声ではなく、些か上ずったような声が聞こえて、もう一度向き直った。
「はい?」
「中は……見たか?」
 チェルシーは目を見開いた。それをフレッドは誤解したのか、目をウロウロと彷徨わせて手を口元に当てている。チェルシーとしては問いかけた彼の良く見える眉が、分かりやすくションと下がっていて、その珍しい表情に驚いたからなのだが。

「チェルシー?」
 驚きのあまり言葉が出ないチェルシーに対し、伺うようなフレッドの声が聞こえて我に返る。

「いえ、中身を見るなんて、そんなはしたないこと致しませんわ」
 そう言うとフレッドはあからさまにホッとした表情をした。実際、小説ならまだしも父親の使っていたような何の変哲もない手帳に興味もないからだが。そしてコホンと咳払いを一つ落とした後には、下がっていた眉尻はいつの間にかキリリと上がり、眉間にも立てに1本、皺が入っていつものフレッドがそこに居た。

「……拾ってくれて感謝する。では行ってくる」

 チェルシーの返事も待たずに勢いよく踵を返し、カッカッといつもに増して早歩きで、今度こそ本当に玄関のドアを開けて出て行った。

「何だったのかしら?」

 小首を傾げながらそう独り言ちると、口元は自然と緩んでいた。

(あのフレッド様があんなふうに狼狽えることもあるだなんて!)

 いつもの無表情よりよっぽど良い。
 彼は閨事ですらあんな表情はしない。乱暴なことはしないが、あっさりと淡白。寧ろ終始不機嫌そうにしているのだから。そんな男に世継ぎのために必要なこととはいえ、抱かれるものの身にもなってほしい。まぁ、そうそう求められることもないのだけれど。チェルシーに魅力がないのか、それとも男色との噂は本当なのかもしれない。

 それはさておき、さっさと出て行ってしまうあたり、彼はやっぱりいつものままだ。生きていれば珍しいこともある、と言ってたのは今は亡き祖父だったか。そんなことを思いながらチェルシーは彼が出て行った玄関の扉を見てから、何気なく目線を下げた。

「あら、何かしら?」

 玄関扉の少し手前に白いものが見えた。さっき入ってきたときからあったのだろうか。近付いて拾い上げれば折りたたまれた紙であった。

 手帳であったならば勝手に開けないが、一枚の紙であれば考えなしに開けてしまうのは仕方のないことだろう。ゴミか大事なものか判断をしなくてはならない。

 そこに書かれていた文字にチェルシーは目を瞠った。

「……え?」

 殴り書きにも思える達筆な字で書かれていたのは、

『チェルシーが可愛すぎてつらい』

 という一文であった。
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