キネンオケ
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今年最後に大きな公演があった。

ドビュッシーとともにフランス近代の最も美しい星と言われたモーリス・ラヴェル作曲の、左手のためのピアノ協奏曲。

この曲は戦争で右手を失ったピアニスト、パウル・ヴィトゲンシュタインの依頼で作られたもので、しばしば右手やその機能を失ってしまったピアニストたちのレパートリーとしても演奏される。
ドラマティックで、この音楽の世界の中にいるだけでも興奮する。高い緊張感の中で必死についていくように朋美はヴァイオリンを鳴らす。

ピアノ奏者は、昨年国際コンクールで上位入賞を果たした藤井渉。彼は両手とも健在で、まだ若い男性には、片手だけではエネルギーを持て余してしまうのではないかなんて思ったが、余計なお世話だった。この傑作に、彼は左手にそのすべてを注ぐ。正確でクールで、それでいて熱い演奏。
オケ、観客との一体感がある素晴らしいひととき。

アンコールで、藤井渉はラヴェルの左手のための協奏曲についてとパリでの自身の生活について少しトークをしたのち、せっかくの機会だからとピアニストはスクリャービンの左手のためのノクターンを演奏してくれた。

この曲は、ロシアの作曲家、スクリャービンが故障した右手が回復するまでの間に左手を特訓するとともに、その作曲にも力を注いだ時代の作品である。

ピアニストの独奏にしばし朋美は目を瞑る。ロマンティックで美しい音。心をゆさぶる。音に色が、景色がある。
目を閉じて聴いていると左手だけで演奏しているとは思えない。そんな名曲であり、名演奏だった。

温かな、やさしくも力強い演奏。こんなふうに、世の中には片手だけでも楽しめる音楽があるのだ。
この曲なんて、スクリャービンが右手を故障していなければ、生まれなかったかもしれない作品。そう思うと感慨深いものがある。聴衆とともに朋美は酔いしれる。

スクリャービンの手は、決して大きくなかったという。ピアニストにとって手の大きさが有利になることも考えれば、それはデメリットだったかもしれない。
でも、本当は音楽を楽しむのに、手の大きさも小ささも、右手も左手も関係なかったのだと気づかされる。そう、本当は楽しみを望む心さえあればいいのだ。
左手だけで作り上げられる美しい世界は、十分に満ち足りていると言える。
それなのに、どうしてだろう。泣きたくなるのは。

「きちんとこれでうまくいっていると言える。」

あのときの、言い聞かせるみたいな魁の母親の言葉。
前を向こうと言う意欲はもちろんすばらしいことだけれど。

本当に?
ケガで楽器を弾くのをやめてしまった誰かのことも。

本当に?

左手のための美しい音楽を聴きながら、自分の両手の感覚を確かめて朋美は思う。
だってもしも、右手を取り戻すことができるのなら、誰だって取り戻したいって思うはずだ。失ってよかったなんて言えるのは、結果論でしかない。
ピアニストの健康的な右手、意図的に休まされているその手が視界に入ると、ますますそんなことを思う。誰だって、本当は失ってよかったものなんてないはずだ。少なくとも朋美はそう思った。

自分のヴァイオリンに触れる手。弓を持つ手。互いに動かすときに生まれる美しい音色を知ってしまうと、この手が動かなくなったらと思うとたとえ指1本であっても失うのがとても怖い。
人生が、大切なものが増えていくばかりだったらいいのに。

ピアニスト藤井渉のアンコールのソロが終わると、観客が盛大な拍手を送った。オケのメンバーも同様に拍手をする。朋美もまた、両手でしっかりと、力強く拍手を送った。
音楽を楽しむ心を願って。これからの健康も願って。

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