キネンオケ
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「研究の関係で3月下旬からしばらくロンドンに行くんだと。例のマキちゃんの件はわからなかったけど。」

詳しく教えてと問いただした朋美に対する和樹からの二通目のメッセージにそう書いてあった。
そのメッセージを読んで気づく。もしかしてこの間言ってた「いいこともあった、たぶんいいことのはず」は、ロンドンに行くことだったのかもしれない。

ロンドンと言えば世界でもあらゆることがトップクラスの機関、施設がたくさんある。彼が望んだ研究ができて、夢の実現に近づけるならそれは喜ばしいことのはずだ。それでも、もう、その話を聞いてから心は穏やかでいられなかった。

他愛ない話は気楽だし誰も傷つかない。知らないほうがいいこともあるのかもしれない。聞かないほうがよかったと思うのかもしれない。
自分の素直な気持ちをぶつけて、相手が傷ついたり、自分が傷つく結果になってしまったりすることを思えば、深い話なんてしないほうがいいんだ。

それでも、思い出してしまう。
魁を紹介された日のこと。あまりにも変わった人でとても驚いたこと。それから彼がコンサートに突然現れたこと。戸惑いながらももう少し話をしてみてもいいと思って、思いがけず二人でお酒を飲んだ夜。彼の目指す研究が細胞を使ってヒトの失われた機能を回復させようという再生医療なのだと教えてもらった。研究の詳しいことはよくわからなかったけれど、社会の役に立つ仕事をしようとしていることはわかったし、静かな情熱も優しさも感じた。近づいても大丈夫なのだと思えた。

それからいい演奏をたくさん聴くようにと先生から教わったことを言い訳にして、魁に会うための理由はいつも音楽だった。彼の家にある貴重なレコードや古いCD。借りて返してはまた借りて、その繰り返し。朋美の家にある一枚のCDは、この間、魁が持ってきてくれたもの。それを返さなくてはいけないのは確かだけれど、本当の目的は会ってきちんと話をすることよりほかない。魁が、自分を通して音楽に興味を持ってくれたのは嬉しい。でも。

「聴いてみたいなと思ったんだよ」

あの、初めてコンサートに来てくれた日のこと。その興味をもったきっかけが、‘私の演奏’だったからだと、確認したい。他の誰でもない自分だったからと、他の人と違う特別な音色なんだと、言って欲しかった。

しかし、よりによって和樹はどうして、久々の楽しみにしていた音大仲間との室内楽コンサートの前日に変なメールを送り付けてくるんだ。

その内容を思い出すと和樹を恨みそうになる。おかげで昨日は安眠できなかった。はやめに眠りについたものの、結局夜中に目を覚まして、慣れないブランデーをいくらか飲んで明け方再び寝た。
結局、魁のことになると自分の心が乱されるのだと実感するばかりだ。

楽屋で自分の少しだけくすんだ肌を見て、もう一度頬に明るい色のチークを入れて、身だしなみを調えていた。ヴァイオリンの手入れも確認も十分にして、仲間との打ち合わせも終わってもう他にできることはなくて、思わずため息をつきながら気持ちを落ち着かせるためにも楽譜を見て、手のひらの感触を確かめる。

一年近く前から計画していた大事なコンサートだった。指揮者のいない室内楽は、楽器同士の会話が大切。まして音大時代から親しい仲のメンバーはそれぞれの変化に敏感だった。ひたむきに音楽に向き合っていた仲間に心配をかけたくないし、不安にさせてもいけない。

堂々と、今までやって来たことに自信を持って、気合を入れて朋美はステージに立ってみたものの、慣れない舞台、久々のカルテット、そして、昨日のメール。

集中できない。

気が付くとヴァイオリンを挟む首はいつもより強く強張っていた。手首もぎこちない。自分で自分に苛立つほどに、この美しい音楽を届けたい気持ちが、うまく形にできない。その葛藤と戦うのに必死で、楽しむ余裕はないまま、前半が終わった。
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