ファム・ファタール〜宿命の女〜

 「あ、おいおい、あれほらあれじゃね?」

 あれ、しか情報が入ってきていない。「なんだそれ」と言いながら、同じ剣道部の仲間である林が指差した方向を見た。瞬間、つきりと鋭い痛みが胸を刺し、俺はすぐに視線を逸らす。

「あ?あぁ、女子が噂してたわ。洗井くんに彼女ができたぁ、つって」
「してたしてた。知らんけど。ってか、あの彼女の方って、森脇の幼馴染だろ?なぁ?」
「え、まじで?わりかし可愛いじゃん」
「でも洗井と並ぶと見劣りするよなぁ、やっぱ」
「いや、洗井のレベルが高すぎるだけだからね」

 適当に繰り広げられる部活仲間たちの下品な会話に、俺は愛想笑いを返す。いや、普段なら俺も一緒になってワイワイ騒いでいるのだ。だけど、今回は内容があまりにもセンシティブすぎる。もちろんそれは、俺にとって、である。
 先程僅かに捉えた光景を思い出す。美琴の俺には絶対に見せない笑顔。きっと熱い眼差しを送っているのだろう。なんだ、まじで付き合ってんじゃん。
 「本当に好きな子と付き合いなよ」なんてよく軽々しく言えたもんだな。俺が「付き合って」と懇願すれば承諾してくれるのかよ。

「もうすぐ花火始まるし行こうぜぇ」

 俺は一刻も早く会話を切り上げたかった。見たくないのだ。俺じゃない誰かと幸せそうにしている美琴を。
 目を瞑りたいのだ。関係が壊れることが怖くて、好きだと言えない情けない自分に。


 カラコロ。下駄の音が住宅街に響く。
 あれだけごった返していた人たちも、駅前を離れてしまえばどこへやら。先程の喧騒が嘘だったかのように、夜の街は静まりかえっていた。

「楽しかったね」
「うん、楽しかった!最後のナイアガラ?すごかったよな」

 ついさっき仕入れたばかりの花火の知識を口にしながら、洗井くんは少年のように明るく笑う。      
 そしてしばしの沈黙。
 洗井くんが足を止めて「公園寄ってかない?もう少し一緒にいたい」なんて言うものだから、私は壊れたオモチャのように首を縦に振った。断る選択肢なんてないのだ。


 「お茶でよかった?」と聞きながら渡されたペットボトルをぎゅっと握りしめる。

「うん。ありがとー」
「どういたしまして」

 私の横に腰掛けた洗井くんもお茶を買ったようで、早速キャップを捻り、ごくごくと勢いよく飲みだした。どうやら相当喉が渇いていたみたいだ。夜とはいえ、真夏はまだまだ蒸し暑いので気持ちは良くわかる。

「ここまで送ってくれてありがとね」

 それでも私は飲み込む音が聞こえないように、そう告げたあとに、こくりと少量のお茶をゆっくりと流しこんだ。
 「や、それは全然」と言いながら、洗井くんはゆっくりと私を見つめた。ベンチの側にあるオレンジ色した街灯が洗井くんを後ろから照らし、表情が見えづらい。ゆっくりと顔が近づいてくることだけがわかった。
 あ、キスだ。私がそう思って目をつぶると、「浴衣、ほんとに似合ってる。かわいい」と耳元で囁かれた。
 え……。キスだと勘違いしてしまった恥ずかしさと、改めてはっきりと褒められた嬉しさとで複雑な感情に襲われる。戸惑った私の雰囲気を感じて、洗井くんは言葉を続ける。

「俺、恋愛経験なさすぎて、褒め方とかわかんなくて。いつ言おう、いつ言おう、ばっか考えてたよ」

 洗井くんも最初の褒め方はなにか違うな、と感じてくれていたみたいだ。褒めてくれたことより、私と向き合おうと真剣に考えてくれていたことがとても嬉しい。

「ありがと。悩んで選んだ浴衣だから、そう言ってもらえて嬉しい」
「牡丹だよな」

 浴衣の牡丹柄が施されたところを撫でながら洗井くんが聞くので、「そうだよ。なんか、牡丹柄は幸福って意味があるんだって」とスマホで拾った知識を伝えた。

「幸福かぁ……。俺、今日かなり幸せだったよ」

 どうしてそんなに泣きそうな顔で言うの。街灯の明るさに慣れてきた目に、洗井くんの切なげな表情が映った。洗井くんは幸せだと泣きたくなってしまうのだろうか。
 私は好きが溢れて泣きそうだよ。

「ふっ……。また泣きそうな顔してる」

 泣きそうな顔をした洗井くんに言われるのだから、私も大概な顔をしているのだろう。

「私も幸せだな、って思ったの」

 私がそう告げるや否や、洗井くんの顔がさらに近づき、鼻と鼻がくっつく。息ができない。私、このまま死んでしまうかもしれない。
 そんな馬鹿げたことを考えながら、ぎゅっと固く目をつぶると、今度こそ2人の唇が軽く触れ合った。
 おままごとのようなキスだ。だけど、私にとっては宝物のようなキスだった。
 「好き、洗井くん、好き」と制御しようにもできないほどに溢れてくる言葉を、うわ言のように呟いた。洗井くんはそれに応えてくれるかのように、言葉が途切れる度に角度を変えながら唇を合わせてくれた。
 それが終わると、いつの間にか繋がれていた手を解き、洗井くんは私の指先に唇を落とした。ハッとして目を開けば、私を見つめる洗井くんの瞳と視線が交わる。
 それは確認のようであった。「お前の血を吸うぞ」という確認である。私がこくんと頷けば、私の人差し指がつぷりと洗井くんの口の中に沈み込んでいく。

「あ、まって、あらいく、ん、まって」

 舌で絡めとられた人差し指からビリビリとした快感が流れ込んでくる。こんなのおかしくなる。   
 私は、やだやだ、と首を横に振って拒否を示したが、吸血行為に夢中な洗井くんは一向にやめてくれる気配がない。
 血を吸われるという行為が、なんでこんなに気持ちいいの。頭がくらくらする。腰の辺りがずしりと重くなり、じわじわと快感が全身に広がっていく。

「も、やだぁ……」

 私の情けない懇願がやっと届いたのか、それともある程度満足したのか、洗井くんは肩で息をしながら私の人差し指を解放してくれた。

「っ、はぁ……ごめ、ん……」

私の目尻から流れ出たものは生理的な涙だ。それを認めた洗井くんは、慌てて謝罪の言葉を口にし、かなり丁寧に優しい力でその涙を拭ってくれたあと、抱きしめてもう一度キスを落としてくれた。そんなことで恐怖や怒りの感情が消えてなくなるのだから、相変わらず扱い易い奴だと自分でも思う。


「ねぇ、唾液になんか入ってるの?その、き、気持ちいいから……」

 と、落ち着いてクリアになった頭で洗井くんに問いかける。体液に治癒機能がついてるぐらいたがら、媚薬物質が入っていてもおかしくないと思ったのだ。なにがどう気持ちいいのかは言えなかった。

「いや、直接的に快感物質が入ってるんじゃなくて、唾液の物質に反応して、明石さんの身体からドーパミンが分泌されるって感じ」

 なるほど、わからん。なんとなく想像はできたけれど。
 話を聞いてもなお、きょとんとした私に向かって「ま、蚊に刺されて痒くなるのと一緒だよ」と朗らかに話した洗井くん。
 吸血欲求が満たされて、だいぶスッキリしたようだった。
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