ファム・ファタール〜宿命の女〜

 今日のこの時をどれだけ心待ちにしていたことか。机を持ち上げて移動させている洗井くんの姿をチラリと盗み見た。掃除当番の生徒以外にも帰宅部の子が何人か残っており、気が向いたのか掃除を手伝ってくれている。ありがとう。
 だけど真剣に掃除をしている洗井くんに、なんて声をかけて近づけばいいのか……私は考えあぐねていた。そうこうしているうちに、今日の掃除が終わろうとしていた。後はゴミ捨てをして、日直の子が鍵と日誌を職員室に持って行けば、さよならだ。

「ゴミ、俺が持ってくよ」

 ゴミ箱を持ち上げようとした瞬間、洗井くんが私の手からゴミ箱を取り上げた。いきなりのチャンス到来に、気持ちの準備ができていなかった私は、洗井くんが思わず笑ってしまうほど動揺していたらしい。

「ごめん、びっくりさせちゃったね」

 紳士的な振る舞いで私を気遣ってくれる洗井くんに、またしても胸が高鳴る。ぶんぶんと音が鳴りそうなほど首を横に振って否定をすれば、洗井くんはより一層笑みを深くした。
 一見すると冷たい印象を与えかねない、横幅の広い切長のアーモンド型の目元が、優しく細められる。笑うと随分と幼く見える顔が、私をまた虜にさせた。ギャップ……ごちそうさまです。

「でも分別一人だと大変でしょ?洗井くん、部活もあるし。だから一緒に行こう!」

 だから私が行くよ、とは言わない。そんなこと言ってしまって、万が一にも洗井くんが受け入れてしまったら……せっかくのチャンスが台無しだ!
 
「俺が行こうか?」

 私たちがゴミ箱を持って教室を出ようとしたとき、他の男子が私に気を使ったのか、今さらそんなことを言い出した。大丈夫。むしろ私が行きたいから!!

「大丈夫だよ。ありがと」

 丁重にお断りをして、改めて私は洗井くんとゴミ捨て場に向かって歩き出した。幸せ。

「そういえば、この前いきなり帰ってごめんね。せっかく本おすすめしてくれたのに……」

 ずっと気にしていたことを謝れば、「気にしないで」と、洗井くんは空いている方の手を顔の前で振った。
 
「また借りに行くね」
「うん。あ、なんで魔性の女が出てくる本が読みたくなったのか聞いてもいい?」

 洗井くんはあの日を思い出すように笑った。そんなに面白かったのだろうか?

「……恥ずかしいんだけど、私好きな人がいて、その人に振り向いてほしいの」

 私の告白に洗井くんは「へぇ」とだけ呟いた。それ以上発言しないところを見ると、話しの続きを待っているのだろうか。それとも私の好きな人の話には興味がないのだろうか。嫌な汗がつぅ、と背中を流れる。一人で勝手に気まずくなって、私は焦ったように話を続けた。

「私、恋愛経験がほんとになくて……。だから魅力的な女の人が出る小説を読んで、勉強しようかなぁ、って」

 私の話をそこまで聞くと、洗井くんが突然「ごめん」と謝った。なにに対してのごめんなのか、まったく見当がつかない私は瞬時に嫌な妄想をしてしまう。
 ごめん、明石さんの恋愛話は興味ないんだ、ってこと……?いやいや、優しい洗井くんがそんな辛辣なこと言うはずないじゃん。……だけど、優しい洗井くんがそう言うのを我慢できないほど、私の恋愛話に興味なかったら……?
 被害妄想に青ざめている私に、洗井くんの低めの声が優しく響いた。

「その目的なら、俺がおすすめした小説は相応しくないかも」
「……え?」

 思わぬ話の流れに、きょとんとした表情を隠しきれていない私へ、洗井くんは丁寧に説明を始めた。

「あの小説に出てくる魔性の女の人って、ファム・ファタール、宿命の女ってやつでさ。ちょっと駆け引きが上手くて、男を手玉にとりますってレベルじゃないんだよね」

 ちんぷんかんぷんである。ふぁ?ふぁむ?洗井くんの話を聞きながら、徐々に首が傾いていく。つまり?どういうこと?

「つまり、男を破滅へ導く女の人のことなんだよ」

 は、破滅……。聞き慣れない衝撃ワードに、首を傾けたまま固まる私を見て、洗井くんはまた爽やかに笑う。
 しかし、破滅へ導く女なんて……恐ろしい。

「でも破滅させることができるなんて、よっぽど魅力的なんだろうねぇ」
「うーん。かなぁ?……自分の人生を捨ててでも手に入れたいと思う人ってことだもんな」

 洗井くんは「ちょっと俺には理解できないわ」と揶揄するように鼻で笑った。今まで見たことのないその笑い方に、私はどきりとする。
 かっこよくて、優しくて、真面目で、紳士的な洗井くん。私の知っている洗井くんは、噂でしか彼を知らない礼人と大差ないのだ。
 もっと知りたい。誰も知らない洗井くんを。私だけに見せてほしい。
 さっきのあの笑い方は見間違いだったのかな?そう思ってしまうほど、「夏休み楽しみだよなぁ」と笑う洗井くんはいつもの、みんなが知っている洗井くんだった。
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