あの日溺れた海は、

こうして書くことに集中している間は何もかもを忘れて、もう一つの世界の中に入ることが許される。


わたしは好きな人に振られることすらかなわないトラウマを抱えた可哀そうな女の子じゃなくなる。


だからこそ執筆にどんどんのめりこんでいった。初めて書くことを覚えた時のように。



「よ。」

その日の帰りも亮は昇降口でわたしを待っていた。亮が口を開く前に慌てて携帯を確認しようとしたが、そんなわたしを見て亮は「今日は送ってねえよ。」と笑った。


「別に、待ってなくたっていいのに。」


半分呆れて言うわたしに「いいのいいの。」と言った。その次の言葉を遮るように亮に「ありがとう。」と言うと歩き出した。




「昨日、眠れたか?」


駅から家へ向かう道の途中亮がそう静かに聞いた。わたしは一瞬間を開けて、首を縦に振った。


「…はなは嘘つくのが下手糞だな。そんな顔をしてうん、って答えても信じられねえよ。」


そう言って亮はわたしの頬をつねった。反射的に二人の歩みが止まる。


そこまで言われるなんてどんなひどい顔をしていたのだろうか。

そう思うと恥ずかしさがこみあげて顔をそむけた。


でも亮は頬を引っ張って無理やりわたしの顔を自分の方を向かせた。

亮の視線がわたしに降り注いでいるのが嫌でもわかる。


わたしはどこを見たらいいのかわからなくて、じっと亮のネクタイの柄を見つめた。抓られているからか頬が熱を持っている。


「はな…。」


掠れた切なげな亮の声が耳元に響いた。その瞬間。

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