(完)ポニーテール



君が階段を駆け上がる時、その足を動かす度にぴょんぴょんと跳ねるポニーテールが好きだった。

初めて出会った時から、いつも同じ髪型。

耳の位置より少し高めに真っ黒で何の変哲もないゴムで結わえた、ただのポニーテールが僕の青春の象徴だった。


____『ちょっと!下から覗かないでよ変態ー』

『はあ?お前の下着なんて覗かねえし』

『あれ、私下着なんて一言も言ってませんけどー』


毎週金曜日の4時限目、音楽の時間、別の棟への移動時間。


彼女がつるんでいた女子グループと、僕がつるんでいたグループは別に打ち合わせなんてしてないのに毎回前後に連なって移動していた。


高校生の僕らは、恋愛脳真っ盛りで、くだらないことで笑い合う。


自然のうちに、その後付き合うことになるのだろうなと推測できる男女のペアが固定化していき、僕と彼女もそうだった。


口下手な僕に彼女からちょっかいをかけてきて、僕はそれに嫌な顔を見せながらも、彼女の望む反応をする。


教室で授業中ふと目があって、驚いて一瞬目を背ける仕草も、その後照れた顔でこっちを見て笑うのも、先生に当てられて大袈裟なほどに慌ててみんなに笑われるところも、全てが愛おしかったけど、


だけど僕はあの時間、あの移動時間、3階の渡り廊下の手前、階段の一番上に先に着いて、数段下にいる僕にポニーテールを大きく揺らして振り向いて、意地悪そうに笑う君が一番好きだった。


あの時は、君のその全てが僕のものになるのだと、信じて疑わなかった。


お互いに向けられた好意を理解して、その時間を楽しんでいた僕らは、そんな青い春があっけなく奪われるなんて予想もしていなかったのだ。





始まりは唐突だった。


彼女がトレードマークのポニーテールをせずに、ボサボサの髪の毛をそのままに登校してきた。


クラスはざわついたし、彼女と仲の良かった女子たちは慌てて周りを囲い込み、どうしたのかと口々に問いかけていた。


だけど彼女は力なく笑うだけで、何も答えようとはしなかった。


僕ももちろん心配した。
だけど、その日の前日まで彼女は体調を崩して長く休んでいたことを思い出し、まだ体調が悪いのだろうと特に気にすることはなかった。


やはりおかしいということに気づいたのはそのボサボサの髪型を彼女が1週間辞めなかったからだ。


そして、僕に彼女が一切話しかけなくなったからだ。


それまでは僕らの会話の糸口は全て彼女が作ったものだった。


僕は誰に対しても口下手で、特に自ら好意を自覚した人に対してはより一層気軽に話しかけられなくなる。


だから、彼女が話しかけて来なくなって僕らの会話は一切なくなった。


驚くほどに。


もちろん僕に話しかけてきていたのは彼女だけだったというわけではないから、学校で喋らなくなったというわけではない。


でも、僕の学校生活で一番心波打つ瞬間は彼女とくだらないことで笑い合う時だった。


途端に僕の学校生活は、途端に空虚に染まった。


僕の絶望を彼女が気にするそぶりもなく、変化は次々と訪れた。


2週間後彼女は下ろすと腰まであったその髪を顎のあたりまでばっさりと切ってしまった。

さらに、次の日には髪から奪った長さを埋めるように、彼女はそれまで今時らしく太ももの辺りまで短くしていた制服のスカートを脛の辺りまで長くしてきた。


高校生活を、SNSでたくさんのいいねが来るような思い出作りの場として捉えている彼女の元友人達は変わってしまった彼女を気にかけることを辞めた。


それまで友人達とともに廊下の中心を大きな声で笑いながら闊歩していた彼女は、いつの間にか教室の端でほとんど喋らない生徒になっていた。


陰鬱なオーラをまとい、仲間達が自分から離れて行ったことを悲しむ様子は一切見せなかった。


長く伸びた前髪の隙間からたまに見える瞳は、いつも何かに怯えるように揺れ動いていた。


彼女と話さなくなって3ヶ月が過ぎて、ただのクラスメイトという間柄になってしまって、席替えをして、彼女と隣同士になった。


どうにかして話しかけたいと、ずっとタイミングを見計らっていた。


英語のペアワーク、彼女と一緒になった僕は英文を交互に読み合う途中で、一世一代の勇気を振り絞り聞いた。


「…元気?」


久しぶりに彼女の瞳に僕の姿が映った。


「……うん」


もう僕が学校に来る1番の理由だった彼女の面影は全くなかった。
跳ねるようなあの可愛らしい声すらもうなくて、低く不機嫌そうな返事が返ってきた。


臆病な僕はもうそこでやめてしまいたかったが、これが最後だと自分を奮い立たせてもう一つ聞いた、


「どうして、なんで急にそんな変わったんだよ」


駄々をこねる少年のような情けない聞き方だった。

そんな僕に彼女は俯いたまま、答えた。

「失恋したの」

その言葉に僕が反応する暇も与えず、彼女は続きの英文を読み始めた。


彼女の言葉を飲み込むのには時間がかかった。


だけど、その日の放課後には、ああなるほどと納得ができていた。


向こうは別に自分を好きなわけではなかったのだ。
僕の盛大なる勘違いだったのだ。


その事実を受け入れるには、自分のこれまでの言動が恥ずかし過ぎて、穴があったら入りたいとはまさにこのことだと思った。


失恋くらいであんなに人が変わってしまうものかと一瞬疑いもしたが、それほど好きだった相手なのだろうと思えば、なんとか納得もできた。


そうして僕の高校一年生の青春はあっけなく終わった。


一年生の修了式、仲のいい友人らとカラオケに行こうと盛り上がりながら、下駄箱でいつも通り自分の靴を取った。


ふと靴の向こうに何かが置かれているような気がして、腰を曲げて中を覗き込んだ。


靴箱の中は暗くよく見えず、仕方なく恐る恐る手を突っ込んで勢いよく握りしめて、靴箱の中から出した。


「うわ、なにそれ嫌がらせ?」


「お前いじめられてんの?」


周りにいた友人らが口々に好き勝手な言葉を投げつけてくるが、僕は何も言い返せず、首を傾げた。


「薔薇…?」


花なんて全く詳しくない僕でも、それが薔薇であることはわかった。真っ白な薔薇。


だけどそれは悲しいくらい、ぐちゃぐちゃに握りつぶされ、泥だらけになっていた。


友人が嫌がらせだという理由もよくわかる。


「ストーカーじゃね?気持ち悪ー」


僕の手の中を覗き込みながらさらに言葉を重ねる友人に、さあと言って、どうすることもできず、薔薇はもう一度靴箱に戻した。


そのまま学校を後にし、部活に入っていなかった僕は春休みの間一度も学校に行くことはなかった。



だからそれを知ったのは新学期の始まり、始業式の朝だった。



彼女が自殺した。



まだ一年のクラスのメンバーのままで、顔面蒼白の担任から告げられた事実に、初め僕は心から動揺し、上手く呼吸ができなくなった。


もちろんそれは僕だけではない。しばらく教室は静まり返り、突然、入学当初は彼女と一番仲良かった女子がすすり泣きを始めた。


それに釣られるように、女子達がお互いに顔を見合わせながら、涙を流し始め、男子らは大っぴらに泣くことも、かといってひそひそと話すことも憚られて、きまり悪く俯いて、机の上を凝視していた。


僕は、隣から仲のいいグループの1人が自分を心配そうに見つめていることに気づいていた。


彼は、いやつるんでいた皆んなは僕が彼女に好意を持っていたことはわかっていたと思う。


だが、僕は反応することはできず、周りの男子と同じように、呆然としていた。


どうして、そんな疑問が頭を埋め尽くす。


一体なにが彼女を変えてしまったのだろうか。
キラキラと輝く青春を十分すぎるほどに享受していたはずの彼女が自ら死を選ぶほどに追い込まれたのはなぜなのか。



クラスだけでなく学年でも十分知られた存在だった彼女が自殺したという大ニュースは一瞬にして全校に広まり、春の暖かな雰囲気とかけ離れた空気が1週間ほど漂っていた。


しかし、それも新一年生が入学してくると、だんだん改善されていき、彼女が半年間空気のように過ごしていたことも原因なのか、1ヶ月後にはほとんど状況は戻っていた。


僕もしばらくは悲しみに暮れていたが、所詮僕は彼女の家族でも、恋人でもなく、友達とも言えるかどうかも怪しい存在なのだと思った途端、あっさり乗り越えられた。



そして、半年後、僕に高校で初めてのカノジョができた。


新しく同じクラスになった明るい女子だった。


いつも高い位置でポニーテールをしていた。


文化祭マジックなどという、大人からすればきっと馬鹿らしい概念にまんまと乗せられて、周りの空気のままに付き合った。


「ねえ、最近私花言葉にハマってるんだ」


付き合ってしばらく経って、カノジョの家で映画をのんびりと見ている時、カノジョがおもむろにそう言った。


カノジョは一般の女子高生とは少しずれていて、みんなと違うものを欲しがり、身につけたがった。


だから、花言葉もそうなのだろう。どうせ1ヶ月後にはもう飽きている、そう思いながら軽い返事を返した。


カノジョは興味を示さない僕に苛立ったように、肩を叩いた。


「そういえばさ、一年の修了式の時、あの自殺した子に靴箱に花入れられてたでしょ?私見たんだよねー、あれって絶対告白じゃん。
その花何だった?私が花言葉調べてあげる」


カノジョの言葉は意地悪く、棘があった。


でもその時は、そんなことどうでもよかった。


それまですっかり忘れていた。


修了式の日、元に戻したあれを改めて取り出した覚えもない。


あれを、彼女が入れた?


動揺してしばらく動けなかったが、僕はカノジョに平然を装って返事をした。


「白い、薔薇だったかな」


「白い薔薇ー?えっとね、うわ!『純潔』、『私はあなたにふさわしい』、『深い尊敬』だって!絶対2番目じゃん!こんな上から目線で告白してきたくせに、振られるなんてだっさ!私だったら生きていけないなあ、あ、これまずいかな」


カノジョのブラックジョークに僕は怒りも悲しみも感じなかった。


ただ、その読み上げた花言葉だけが頭をぐるぐると回っていた。


純潔
私はあなたにふさわしい
深い尊敬


彼女は言っていた。まだ屈託ない笑顔を惜しみなく見せていた頃に。


どうして忘れていたんだろう。

いや、思い出したくなかったんだ。あの頃の彼女を思い出すと、自分の勘違いが恥ずかしくなるから、結ばれなかった事実に虚しくなるから。



『私最近、花言葉にハマってるんだ』


彼女はカノジョとよく似ていた。
いや僕が彼女とよく似たカノジョを選んだのだ。


『でもあれって一つの花にアホみたいにたくさん意味あるだろ。ややこしいよな、一個にしろっての』


『アハハ!それは私もわかる!だから、
私は調べた時最初に出てくる花言葉が正式なやつってことにしてるよ』


『それホームページごとに違うんじゃねーの』


『え、』


『っは、バッカだなお前』


『〜うるさい!』



カノジョの持っているスマホを奪い取って、そのサイトを覗き込んだ。


元のページに戻すと、彼女が見ていたのは“花言葉”と検索エンジンにかけた時、一番上に出てくるサイトだった。


純潔だ。


だけど、あの日僕の靴箱の中に彼女の置いた薔薇はぐちゃぐちゃに潰されて、汚れていた。


「汚れた、純潔…」


数日間休んだ後、どんどん変わっていった彼女。


短く切った髪、長く伸ばした制服のスカート、暗い表情、


不自然なほどに、

男子に近づかなくなった。






数日後、元担任を問い詰めて、彼女の家を訪れた。


当の薔薇は放置しすぎて、完全に枯れてしまい、白だったかどうかもわからなくなってしまっていた。


彼女の葬式に出たが、彼女の家族の意向で、自宅への見舞いには行かず、家を訪れるのは初めてだった。


チャイムを押して、玄関のドアから顔を出した彼女と似た雰囲気の女性に僕はこれまでないほどに頭を深く下げて、名前を名乗り、真実を教えてほしいと懇願した。


しばらく玄関先で押し問答をした後、根負けした彼女の母親は、居間に通してくれて、全てを涙ながらに語ってくれた。



あの日、学校の放課後、友人と遊んで、家まで1人帰っていた彼女は、背後から勢いよく背中を蹴られ、地面に倒れ込んだ。


振り向いた彼女の視線の先には図体のでかい、鼻息の荒い1人の男。


とにかく叫ぼうとした彼女は、次の瞬間首を男に掴まれ、耳元で囁かれた。


叫ぶと殺すと、そして静かにナイフを見せられた。


言われるがままに黙った彼女を、男は近くの工場跡地に連れ込み、乱暴した。


彼女は何度か逃げようと試みた。


その度に男に捕まった。






長いポニーテールを掴まれて、後ろに引き戻された。





しばらくして彼女は諦めて、なされるがままになった。






予想はしていた。


覚悟もできていた、だけど耐えられなかった。


僕でも吐き気を我慢できず、無礼を承知で彼女の家のトイレに駆け込んだ。



彼女の母親は、父親は、兄弟は、



彼女本人は、どれほど苦しかっただろうか。


最中に、彼女はなにを思ったのだろう。
開放されてから、家に帰るまでどれほど怖かっただろう。
家に帰って、出迎えた母親に思わず笑顔でただいまと言った彼女は、
写真で脅されたのに、泣き寝入りすることなく警察に全て話した彼女は、
1週間後、学校に来た彼女は、
どうしてそんなに強くあれたのだろう。
彼女が突然奪われた日常を平然と過ごす僕らクラスメイトに彼女はどんな目を向けていたのだろう。
どんな気持ちで、僕のあの問いかけに答えたのだろう。
汚した白い薔薇をなぜ僕の靴箱にあの日入れたのだろう。
どうして死を、選んだのだろう。




昼に食べたものは全て吐き尽くしても、せりあがってくる胃酸を止められない僕の背中を、彼女の母親は泣きながらさすってくれた。


自分の顔面を汚しているのが、吐瀉物なのか、涙なのかわからないほどに、ぐちゃぐちゃだった。


落ち着いた後、僕は彼女の母親に、失礼を心から詫びた。



そして、初めて口にした。
これまで誰にも言ったことはなかった。


「僕は彼女が、大好きでした」


彼女の母親は、貴方だったのねとぽつりと呟いた。


日記に僕を思わせる記述があったそうだ。


僕はそれを見せて欲しいと願った。


彼女の全てを知りたかった。


だけどそればかりは無理だと母親は断固拒否した。あれは見せられないと、僕をこれ以上縛り付けることはできないと。


その後何時間か居座ったが、母親が折れることはなく、そろそろ彼女の弟が帰ってくるからと、家を出された。


どうやって自分の家まで帰ったかは覚えていない。


その日は朝まで眠れなかった。

色んなことを考えた。


もっと早く彼女の身に起こったことを知っておけば、彼女を救えただろうか。


一瞬そんな意味のないタラレバが頭に浮かんだが、すぐに頭を振った。


きっと僕が彼女の状況を知っても、どうすることもできなかった。
せいぜい、性犯罪、被害者、励ましなんて単語を検索サイトで調べて、出てきたサイトから抜粋したありきたりの気休めなセリフしか言えずに、彼女をさらに追い詰めることくらいしか出来なかっただろう。
男に生まれてしまった以上、僕には一生理解ができないのだ。
1人で夜道を帰ることに当然に危険が伴うこと、その恐怖を僕はどれだけ彼女に寄り添いたくても心から理解することはできない。
命はあるのだから、死は選ばなくったって、と心のどこかで感じてしまう僕には無理なのだ。


その日、夕飯を食べに降りたリビングで、母が真剣な眼差しでテレビを見ていた。

テレビではなんてタイムリーなことか、性犯罪の特集があっていた。

女性アナウンサーは語気を強めて言っていた。


性犯罪は、魂の殺人であると。




カノジョとはその後すぐに付き合いを辞めた。


しばらくして始まった加害者の男の裁判に僕は足を運んだ。


男が悪びれる様子もなく、彼女を侮辱する姿に僕は生まれて初めて殺意を覚えた。


裁判中、何度か男に飛びかかろうと決意したかわからないが、それでは裁判の結末がわからなくなってしまうと必死に自分自身を宥めた。





懲役5年


前科一回、写真による脅迫など計画性あり、非常に悪質なものである、それらを踏まえてもたった5年。


それが男に下された罰だった。


彼女は魂のみならず、その肉体までも、もう元には戻らないのに。


たった16年、彼女が生きたのはそれだけだ。
本当はずっと、もっと長く生きるはずだった。
あの日、あの男に目をつけられなければ、溢れるばかりの愛情を周りから与えられ、彼女も誰かに与え、幸せに寿命を全うできるはずだった。
明るく、美人で活発な彼女には、成功された未来が約束されていたはずだ。

それをどうして理不尽に奪った男がたった5年間塀の中に閉じ込められれば、一般大衆に戻れるというのだ。

更生プログラムなんて、一度受けて効果がなかったのに、もう一度試す意味は何なのか。
そもそも一度目の失敗のせいで、彼女の事件は起きたのに。


男も、警察も、弁護士も、検察官も、裁判官も、法律も、世間も、全てが憎かった。


彼女の白い薔薇は永遠に汚れたまま、誰もその汚れを拭いてくれない、折れ曲がった茎を正してくれない。


どうして僕はこんなにも無力なのだろう。


打ちのめされた高校2年生の冬だった。


裁判が終わってからも僕は毎日線香を上げに、彼女の家に通った。


彼女の仏壇に飾ってある遺影は、事件前に、校外学習で遊園地に行った時の写真だった。
遺影は彼女だけだが、元の写真の彼女の隣の隣には僕も映っている。

ポニーテールを揺らして、眩いばかりの笑顔を浮かべる彼女と目を合わせるたびに、今更なんなのと毒づかれている気分になった。

彼女の母親とは初めはあまり上手く言葉をかわせなかったけど、次第に向こうからたまに質問を投げかけてくれるようになり、しばらくしてからはちょっとした世間話をするようになった。


「進路はどうするつもりなの?」


「大学に進学するつもりです」


「そうなの、すごく頭いいって書いてあったものね。何学部とか決めてるの?」


「…今のところ、T大の法学部を志望しています」


「…そっか」


宣言通り、僕はT大の法学部へ入学した。
そして、理由も見つからないまま、司法試験を目指し始めた。
僕は彼女を忘れることができなかった。
自殺したすぐ後は、あっさり乗り越えたのに。
彼女が僕の原動力だった。

院一年目、男が出所した。

僕は探偵に頼って、男の新居を特定した。

隣町の古びたアパートで、一人暮らし。


毎日大学の授業の終わり、仕事場から家に帰る男をつけた。

司法試験に合格するまでのつもりだった。
そうすることが僕の精神を何よりも安定させた。

その後、彼女の家に向かい、仏前に向かって、大丈夫だよ、心配するな、そう語りかけるのがルーティーン化していった。


その日もいつもと同じように男がアパートの前までコンビニの袋を引っ提げて帰ってきた。


もう12月、夜からは雪が降ると予測されていた。

暗闇の中、男がアパートの階段を上るところまで見届けてから引き上げようと決めてマフラーに顔を埋めた時だった。


「キャアッ」


甲高い悲鳴が辺りに響いた。


マフラーから顔を上げて街灯の灯りを頼りに、確認すると


女性が地面に倒れていた。
そして、その背後には男がいた。

女性の耳元で何かを囁く男。


腹の中でぷつりと何かが切れる音がした。


足をもたつかせながら僕は男に突進していった。

こちらに警戒心など一切なかった男は面白いくらいの勢いで吹っ飛んだ


「逃げろ!」


襲われていた女性に大声でそう叫ぶと、女性は一目散に駆けて行った。

寒空の下、男と僕の2人きり。


「なんだてめえ」


馬鹿そうな顔にぴったりの口の悪さ、こちらを睨みつける糸のように細い目。


汚い。


「結局何にも変わらなかったんだな」

「は?」

「お前はそうやって平気な顔で、彼女の青春を奪った」

男はしばらく動揺したようにこっちを見ていたが、突然吹き出した。

「っぷ、ハハハ青春ん?気持ち悪いなあ、俺がこの世で一番嫌いな言葉だ。自分たちが世界の中心にでもなったように勘違いして、青春だ青春だとのたまうクソガキども、大っ嫌いだ」


彼女は事あるごとに青春という言葉をよく言っていた。

みんなで写真を撮った時、
放課後遅くまで教室に残って夕日を眺めた時、
授業をサボって海まで行った時、

『青春だねー』

しみじみとそう言った。
だから僕らもつられて青春だ青春だと口々に言って笑った。

子供騙しのくだらないその言葉を16歳だった僕らには呪文のように繰り返す権利があった。

あの一瞬にしか訪れない、“青春”を十分すぎるほどに謳歌する権利があった。


「お前あの自殺したやつの彼氏か?残念だったな。人を殺さない限り俺は一生許され続けるんだよばーーーか」


その権利を目の前のこいつは妬みや欲望のままに奪い取り、ろくに反省もしていない。


「…そうだな、十分わかった。裁判も法律も、お前を殺してはくれない。


それなら僕が殺す」


ポケットから折り畳み式のナイフを取り出して、刃を出した。


男の表情は一瞬にして青ざめる。


「な、ちょっ、冗談だろ。お前俺を殺したら5年どころじゃねえよ」


「当たり前だろ。お前みたいな本能に従うことしかできないクズじゃないんだ。全部わかってる」


じりじりと距離を詰める。


相手の背丈は僕より低いが、体重はあっちの方が重いだろう。


油断は禁物だ。


だが、男は武器を出した途端、地面に座り込み、眉毛を下げて、僕に懇願した。


「ごめんなさい、ごめんなさい、命は助けてください。お願いします」


呆気に取られるほどに潔い態度だった。


だが、その態度にまたふつふつと怒りが湧き上がる。


「彼女もそうやって助けてくれと懇願したよな。自力で何度も逃げようとした。その度お前は、引き戻して、何自分だけ助かれると思ってんだよ」


「ごめんなさいごめんなさい」


僕の言葉に応えることもなく、男はうわごとのように謝罪の言葉を繰り返した。



ずっとどうしても知りたいことがあった。
彼女はどうして汚れた白い薔薇を僕の靴箱に入れたのか。


ゼロ距離まで近づいた僕に怯えて、必死に足を絡ませながら逃げようとする男を見て確信した。


彼女は僕に仇を撃たせたかったのだ。


その望みをやっと今叶えられる。


やっと大好きだった彼女を恐怖から守ることができる。


ナイフを持った拳を振り上げる。一度振り下ろしたくらいでは死なないことは分かっている。
何度も何度もそこを目掛けて…


「やめて!!!」


突然耳元で大声が響いたかと思ったら、次の瞬間ナイフが僕の手元から奪われた。


急に体に突進されたせいで、僕はその体重を受け止めることができず、地面にゆっくりと倒れ込んだ。

倒れた僕の隣で、グスグスと泣く女性はさっき助けたはずの人だった。


いや、これはこの人は、僕の、元カノジョだった。


「な、なんで」


思わず出た動揺の言葉の後、男がまた襲ってくるのではないかと慌てて動向を確認しようとすると、

そこには警察らしき男数名に確保されている男の姿があった。


「私が呼んできたの」


元カノジョは目を真っ赤にして、鼻水を垂らしながらそう言った。


ああ、僕は彼女との約束を果たせなかった。


がくりと頭を落とし、両手で顔を覆った。


「あの人の、敵討ちのつもり?」


元カノジョが突然そう言った。


「なんでお前がそれを」


「全部、知ってるの。突然別れようって言われて、絶対あの子が原因だって思って、自力で調べた。この前ここを偶然通りかかって、貴方があの男をずっと見張ってて、殺すつもりじゃないかって怖くなって、それから私も毎日ここに来てた。
そんなことになったら、私が絶対止めるって」


「じゃあ、襲われたのわざとか?」


「いや、それは、偶然…」


「なんで、止めたんだよ?わかるだろ!あいつは俺が殺さない限り、罪のない女性の心を殺し続ける!もう彼女みたいな人を出したくないんだよ!彼女を、、やっと守れるはずだったのに…」


女性に強い言葉で怒鳴ったことは生まれて初めてだった。だけどどうしても許せなかった。カノジョさえ止めなければ、僕はあいつを確実に殺せていた。


パンっと乾いた音が周りに響いた。


カノジョが、僕の頬を打った音だった。


「彼女はそんなこと望んでないよ、望むはずがない。
だって彼女は、あなたのことが大好きだったんだから」


「…は?」


「私一年生の時は貴方とクラス離れてたよね。だけど、私入学式の時に、貴方に一目惚れしたの。どうにかして近づきたかった。
だけど数週間もしないうちに、貴方と彼女がすごく仲良いんだって噂で流れてきた。美男美女でお似合いだって、廊下で一緒にいる時もすごく注目されていたの気づいてなかった?
悔しくて、だけどまだ付き合ってないらしいしチャンスはあるはずだって思ってた。
貴方のSNSを探したり、用もないのに貴方のクラスまで行ったり、でもダメだった。
だから彼女みたいになれば私も少しは見てもらえるんじゃないかって、馬鹿みたいだよね
わかってるけど、私は必死だった。
ポニーテールにして、彼女が身につけてるもの真似して、喋り方や笑い方全部彼女みたいに。
でも女子ってすぐそういうの気づくの。
一番気づいて欲しい人には気づいてもらえなかったのにさ。
まずクラスの子達に陰口を叩かれ始めて、一瞬で貴方のクラスまで伝わって、貴方のグループの女子たちに囲まれて口々に文句を言われた。
だけど止めてくれたのが彼女だった。
彼女に言われた、真似してもいいけど、そんなんじゃ絶対好きになんてなってもらえないって。

自分はありのままで、貴方に好きになってもらうんだって」


彼女が僕のことをどう思っていたか。
事件のことを知ってから、そのことは考えないようにしてきた。
今更彼女の気持ちを知ったところで全て遅いと思ったからだ。


「彼女は本当に貴方のことが大好きだった。
同じ人を見てたらわかるの。痛いくらい、わかるの。

そんなに貴方を思っていた人が、貴方に敵討ちなんて望むはずがないよ。
貴方が堕ちていく道を歩ませるはずない」


カノジョの顔はぐちゃぐちゃだった。
僕に絶対何もさせまいと、両手を強く握って離さない。


カノジョは、未だにあの時と変わらないポニーテールをしていた。


いつのまにか雪が降っていた。
寒さで肌が刺されたように痛い。


僕は声を上げて泣いた。




男はカノジョへの暴行で逮捕された。僕が男にナイフで迫った行為は、カノジョの弁明もあり、厳重注意で終わった。


その後、僕はそれまでと何も変わらない生活に戻った。
司法試験に合格し、なんとなく検事を選んだ。


数十年後、


「それでは重度性犯罪者位置情報管理法を可決します」


僕は国会に立っていた。
悲願だったこの法律をやっと可決に漕ぎ着けることができて、ふっと肩の力が抜けた。


性犯罪者の体にGPSを埋め込み、常時管理する。
多くの賛成がある一方で、人権侵害だと批判も多々受けた。
過激派からは命の危険も感じるような攻撃も受けた。
それでも絶対に諦めなかった。
やっぱり彼女のために僕は何か一つ成し遂げたかった。僕にできることといえばこれくらいしかなかった。


「本当に、ありがとうね。あの子のことをこんなに長い間気にかけてくれて」


僕は今も彼女の家に月命日に通い続けている。
今日は法案の可決を彼女の仏壇に報告することができた。


「いえ、僕の勝手ですから気にしないでください」


「子供さんは元気?」


「ええ。下の子もようやく大学に合格しました」


「あら、おめでたい。奥さんもゆっくりできるわね」


「…カノジョは、下の子に出て行って欲しくないって毎日泣いてますよ」


「ふふふ、新婚ぶりの貴方と2人の生活だから、気恥ずかしいのかもしれないわね」


彼女の母親は一頻り笑った後で、真剣な面持ちをして一枚のファイルを僕の前に置いた。


「貴方に見せようか、ずっと迷っていたの。日記は私が墓場に持っていこうと決めたのだけれど、貴方はこれを見なければ全てを完結することができないんじゃないかしらって。

もう、時効だと思うから。
貴方が見ても大丈夫だって言えるのであれば、どうかあの子のメッセージを受けてめてあげてほしい」


僕はすぐにファイルを取って、中からシワのある紙を取り出した。
裏と表を確認するが、


「何も書いてない…?」


「それ、あの子が一度書いて消してるみたいなの、よく見たら読めるわ。
私も事件の後何年かして気づいたのよ」


光に透かして、一文字ずつゆっくり辿っていく。


“何度も掴まれて恐怖に引き戻されたポニーテールが憎くて堪らなかったけど、それでもやっぱり彼が見つけてくれたポニーテールは私の青春の象徴でした”


『ねえ!私のこと覚えてる?』


『え、あー入試の時、シャープの芯を』


『え!なんで覚えてるの!!』


『なんとなく、そのポニーテール見覚えあって』


遠い記憶に思いを馳せて、目頭が熱くなるのを感じながら、微笑む。


仏壇の前に座って、幼いままの彼女と目を合わせる。


さっきここに来る前に包んでもらった白い薔薇を取り出して、君の前に置いて、もう一度目を閉じて、手のひらを合わせた。


どうか、どうか安らかに眠ってほしい。
もう二度と君の白い薔薇は誰にも汚させないから。




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