貯金500万円の使い方


 定期を買うために、帰りに駅に寄った。

 この駅にやってきたのも3年ぶりだ。

 3年もたっているのに、嘘のように何も変わっていない。

 僕は辺りを見渡して、あの頃に思いをはせていた。

 と言っても、思い出という思い出は特にない。

 通勤も車だったから駅を利用したことだってほとんどない。

 それなのに、この町の空気を吸っているというだけで、自然とあの頃の感覚が蘇ってくるのがやっぱり不思議だった。


 僕たち夫婦が歩く前を、舞花とあおい君が並んで歩いている。

 あおい君は時折舞花の方に、愛おしそうな視線を向けた。

 舞花と視線が合うたびに、その言葉も声も、瞳の色にも、強さが増していくように感じた。

 
 どうしてだろう。

 久しぶりに会った二人なのに。

 会ってからほんの数日しか一緒にいなかったはずなのに。

 まるで、ずっとどこかで繋がっていたような。

 そんな絆の強さを感じずにはいられなかった。

 そして何より不思議なのは、舞花はこの風景に、しっくりと馴染んでいたことだ。

 引っ越してから3年の月日がたったというのに、僕が最近見た舞花の中で、一番落ち着いていて、リラックスしていて、素を出しているような気がした。

 僕も知らないような素顔の舞花を見ているような気がした。

 その表情を見て、僕はふと思った。


__もしかして、舞花はここが好きなのだろうか。


 思い返せば、一軒家を建てるために土地を探す時も、今の場所に土地を購入しようと決めたときも、僕たちは舞花に何も言わなかった。

 舞花の気持ちを聞かなかった。

 舞花に伝えたのは、すべてが決まった後だった。

 引っ越しのことも、転校のことも。
 
 舞花は、どんな気持ちだったんだろう。
 
 
 僕たちだって、もちろん舞花のことをいろいろ考えた。

 転校は避けたかった。

 せっかく友達もできたし、慣れ親しんだ土地を離れるのもかわいそうだと思った。

 だけど小学四年生なら、まだ大丈夫だと思った。

 学年が上がれば、もっと気難しくなる。

 新しい環境に入り込むのだってもっと難しくなる。

 すでに出来上がった人間関係になじむのだって大変だ。

 だから、今しかない。

 今が転校のいいチャンスなんだと。

 まだまだ人間関係とか、新しい環境とか、そういうことに無頓着な幼い時期に転校した方が絶対いい。

 新しい環境で新しい人間関係を作れば、その後の舞花のためにもなる。

 そんな風に考えていた。
 

 どうしてそんなこと思ったんだろう。
 
 小学四年生が、どうして大丈夫だなんて思ったんだろう。
 
 どうして舞花の話を聞かなかったんだろう。

 どうして、ここより今住んでいる場所の方が良いだなんて、思ってしまったんだろう。
 
 舞花は、この場所が好きだったのに。


__僕も……。


 そこで僕は、この場所に来てから感じた不思議な感覚の答えに出会った。

 久しぶりなのに、懐かしさを全く感じないこと。

 むしろ、「帰ってきた」という安心感に似たものがあること。


 ここは、歩美と二人で生活を始めた場所。

 舞花が生まれた場所。

 舞花を育てた場所。
 
 三人で行った場所。

 三人で見た景色。
 
 三人で日常を過ごした場所。

 
 僕も、ここが好きなんだ。
 

 この景色も、匂いも、音も、ゆったりと流れる時間も。

 そして何より、この場所に馴染む舞花を見ているのが好きだ。

 その仕草も、笑顔も。

 もちろん、歩美のことも。
 
 僕たち家族の場所は、本当は「ここ」なのかもしれない。
 
 妙に都会感があって、おしゃれで、いつも何かに追われ、比べ、競り合ってきたあの場所じゃなくて。
 

 そんなことを思いながら、僕は定期を買った。

 二人分。
 
 そして、舞花とあおい君と、それぞれに渡した。
 
 あおい君は「あ、あの……僕はほんとに……」と定期を前にうろたえたけど、僕が手渡したばかりの定期を返そうとするその手を、僕はぐっと押し返した。


「持っててくれ。……いざという時のために」

「え?」

「覚悟は、できてるんだよな?」


 僕の一言に、彼の背筋が一瞬伸びたのが分かった。


「……はい」


 小さくかすれた声は、僕の耳に強い意志と共にはっきりと聞こえた。



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