失恋

 今日は久しぶりに残業をしている。仕事が押しているわけではない。家に帰りたくないのだ。

「珍しいですね。五島さんが残業されるなんて」
「そう? 花田君もお疲れさま。仕事終わらないの?」
「……ええ。まあ」

 私は今年三十になった。結婚の予定はないし、今は考えられない。花田は確か二十六歳だったか。まだ仕事に熱意を持っている真面目なタイプの後輩だ。

「課長と何かあったんですか?」
「!」

 花田の突然の言葉に私はドキリとした。



 私が結婚を考えられないのは、好きな人に家族がいるからだ。

 昔から年上の男性に憧れた。そして、いつしか所帯をもつ男性の落ち着いた雰囲気に魅力を感じるようになった。でも一線はこえないできた。

 武田課長は三十九歳。私とは十近くも年が離れている。娘さんが二人いる。

 最初はいいな、と思っただけだった。どちらかというと静かなタイプで、でも笑顔が多い、部下からも優しい上司と慕われる武田課長。

 一度昼食を二人で食べたときがあった。そのときに武田課長は煙草を吸う人なんだと初めて知った。

「ごめんね。吸っていいかな?」
 
 食後に困ったような笑顔で言われて、

「どうぞ」

 と答えた。

 少し横を向いて火をつけ、目を細めて煙草を吸う武田課長の、指や吐き出される煙に魅入ってしまった。

「禁煙中なんだけどね」

 自分の前で煙草を吸ったということがなんだか心を許されているような気がして嬉しかった。

 その日の私はその後とにかく武田課長の 行動を目で追っていた。静かな瞳で見られると、心臓が高鳴った。それでも憧れを超えないだろうと思っていた。

 だが、夜に武田課長の夢を見るようになって、私はすでに武田課長に恋していることに気が付いた。その頃には事務所にいるときは常に武田課長を全身で感じとろうとしていた。そして、よく見つめていたのだろう。武田課長は気付いたようだった。

 二人で昼食をときどき食べるようになった。武田課長は毎回煙草を吸っていた。


「夕食、一緒に食べようか?」


 廊下ですれ違うときに笑顔でさらりと言われ、私はどきどきした。

 それ以来、二人で夕食を食べる日が増えた。夕食だけ。夕食だけと自分に言い聞かせた。それが、夕食後ときどき二人でバーにいくようになった。

 高揚感と罪悪感の狭間でたゆたう。夢を見ているような奇妙な感覚。でもそれが心地よくそして苦しかった。

 課長と私は言葉を多く交わすような仲ではなかった。ただ、一緒にいるだけでしっくりいくような、それでいてドキドキする……。

 この人には家族がいる。そう毎日心に言い聞かせていた。だからお酒を飲むだけ。もう
 これ以上は望んではいけない。
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