ココロの距離 第2話 - 桜降る頃 -
第1章:夏休み終盤


 「それじゃ、今日の練習はここまで」
 夏休みもあと数日になった、9月初め。
 私立K大学に数ある同好会のひとつである、混声合唱サークルの全体練習が、学生会館横の小ホールで行われていた。
 「次の全体練習は試験明け、25日。それまでの間、各パートリーダーは発声と音合わせの予定を組んで、定期的なチェックを怠らないように」
 部長である3年の女子学生が話すのを聞きつつ、瀬尾彩乃(せおあやの)は考えていた。……どうやって、アルトの全員を確実に練習に来させるか、ということを。
 アルトのパートリーダーには3年生が就いているのだが、盲腸のため現在入院中だった。当人が戻ってくるのは前期試験明けと聞いているので、それまでの間は副リーダーである彩乃に、代理としてパートを管理する責任があった。
 全員が真面目に出てくるなら問題はないのだが、何かと理由とつけて数回に1回はサボるメンバーが残念ながら若干名いる。副リーダーを引き受けるだけあって、日頃の練習を重んじる彩乃にとっては、そういう部員は頭の痛い存在だった。
 部長からの通達事項が終わった後、部員全員が声のパートごとに分散し、10名前後の集まりとなる。アルト担当の12名を前にして、彩乃は試験明けまでの予定を伝えた。
 「……で、場所はいつもの公民館です。次の火曜は5時から7時、土曜が10時から12時まで。試験日程を出してもらった上での予定なので必ず来てください。特に水嶋さんと久保木さん、時間に遅れないようにお願いします」
 言いながら視線を向けると、当の二人──3年と2年の女子学生は、顔を見合わせてくすくす笑う。
 再度名指しで言うと、一応は「はーい」と返事をしたが、どうも不安である。他大学のイベントサークルにも所属している彼女たちは、ともすればそちらの活動を優先させがちなのだ。
 練習当日に二人と同じ試験の部員に、見張りを頼んでおくべきかもと考えながら、彩乃はアルト全員に解散を告げた。
 腕時計を見ると、もう少しで12時半だった。
 少し迷った後、学生会館内の売店に向かう。ミックスサンドとパックのミルクティーを買い、会館前広場のベンチで食事を済ませてから、大学図書館へと急いだ。
 図書館前に着いたのは1時5分前だったが、相手は予想通りもう来ていた。
 同じ学科で、かつ中学以来の友人、沢辺奈央子(さわべなおこ)である。
 「お待たせー、練習がちょっと長引いちゃって」
 「ううん、わたしもさっき来たところだし」
 とは言うが、5分前には到着していただろうと彩乃は思った。特に理由がない限り、10分前には必ず来るのが奈央子の昔からの習慣だから。
 館内に入る前に、学生証を取り出す。K大の大学図書館は入館登録制で、在学生は入口に設置された機械に学生証をスキャニングさせる必要があった。
 休み明け、イコール前期試験とレポート提出期間が近いためか、館内には学生の姿が多く見られた。座席も結構埋まっていたが、目的のフロアに幸い、二人分の空きを見つけた。
 休み中はしばらく実家に帰っていた彩乃だが、9月に入ってからはこちらに戻ってきていた。サークルの練習があったし、レポートのことも気になっていたからだ。基本的には適度に真面目であるので、単位を落とす事態はなるべく避けようと思っている彩乃だった。
 今日の目的は、イギリス文学史のレポートに必要な資料を借りるか、コピーすることである。昨夜、奈央子と電話で話をした際、今日調べものに大学へ行く予定だと聞いたので、彩乃の練習が終わるのに合わせて待ち合わせた次第だった。
 奈央子とは同じ英文学科であるから、履修科目もほとんどかぶっている。加えて、中学の頃からのやはり習慣で、同じ課題に関しては相談して対処するのが、お互いの了解事項になっていた。
 レポートについての話が一段落したところで、話題が休み中の出来事に移った。奈央子も10日ほど実家に帰っていて、一度は高校時代の同級生での集まりで会ってもいる。その後は、今は彼氏でもある幼なじみと(親には内緒で)2泊ほど旅行する予定と休み前に言っていた……

 『──もし合格したら、彼女になってくれる?』

 「──ね、彩乃ってば」
 その呼びかけに、会話に関係ないことを思い出していた彩乃は我に返り、顔を上げた。向かいの席で奈央子が怪訝な顔をしている。
 「ごめん、今なんて言った?」
 聞き返した彩乃に対し、奈央子はさらに不可解そうな表情を見せた。しかし口調はあくまで普通に、
 「だからね、これ、こないだの旅行のおみやげ」
 と答え、手にした土産物屋のプリント入りの袋を彩乃に差し出す。彩乃は慌てて言った。
 「あ、パックで北海道に行ったんだよね、羽村(はむら)と。どうだった?」
 「……それ、さっきも聞いてたよ」
 「え?」
 まるで覚えがなかった。
 そんな彩乃の様子に、今度ははっきりと、奈央子は気遣わしげな表情になる。
 「どうしたの、なんかボンヤリしちゃって」
 「──そんなにボンヤリしてる?」
 「してるよー。まさか、自分でわかってないの?」
 そうではなかった。
 今日の自分が、事あるごとに物思いにふけりがちなのはわかっていた。特に、休み中のことを話題にしている時は。
 それでも、会話自体には普通に答え、聞いているつもりだったのだが……今は全然、思ったようにはできていなかったらしい。
 「……うん、わかってなかったみたい。ごめん」
 「あやまらなくてもいいけど──休みの間になんかあったの、もしかして」
 そう聞かれて彩乃は苦笑した。この親友は相変わらず察しがいい。もっとも、今に限って言えば、鈍い人以外にはわかるのかも知れないが。
 「ん、まあね……大したことじゃないんだけど」

 約2週間前──8月下旬。
 その日、彩乃は特に出かける用事もなく、朝から実家で過ごしていた。父や兄姉は仕事でおらず、昼すぎに母がパートに出かけて以降は、一人で留守番の状態だった。
 地元の友人とは数日前に集まったばかりで、また今日にわざわざ会うほどの気分でもない(ちなみに奈央子はちょうどその時期、本人が言っていた旅行中だった)。中途半端に暇な状況で、さてどうしたものかと考えている時、家の固定電話が鳴った。
 友人知人ならほとんどが携帯にかけてくるはずだし、家族に対しても同様だろう。一体誰だろうかと思いながら1階に降り、電話に出ると、
 『もしもし──彩姉?』
 思いがけない人物の声がした。
 「え、宏基(ひろき)?」
 驚いて思わず尋ねたが、聞くまでもなかった。自分を彩姉と呼ぶのは、知る限り一人しかいない。
 「なに、どうしたのいきなり」
 『えーと、ちょっと相談したいことがあるんだけど──今からそっちに行っていい?』
 口調になんとなく歯切れの悪さを感じて、彩乃は少しだけ不審に思った。だが来訪を断るほどの理由はなかったので、「別にいいよ」と返す。
 「けど、何の用事?」
 『……うん、行ったら話すから。じゃあ後で』
 宏基が早口でそう言った直後、ぷつりと通話は切れた。変なヤツ、とは思ったものの、彩乃はそれ以上深く考えたりしなかった。
 御園(みその)宏基は、母方の従弟である。
 彩乃より2歳年下で、姉妹であるお互いの母親の仲が良く、家もさほど離れていないため、小学生ぐらいまでは割合よく会う機会があった。
 一人っ子の宏基は、初めて会った時から「彩姉」と呼んで懐き、彩乃もそうやって慕われるのが決して嫌いではなかった。兄妹の中では一番下なので、姉扱いされるのはむしろ嬉しいぐらいだった。
 まあ細かいことを言うと、思い返すと多少腹立たしいような過去もあるのだが……10年近く前のことだし、彩乃自身、実際にはさほど気にしているわけでもなかった。
 中学に入って以降はあまり顔を合わせていないのだが、宏基を弟みたいに思っているのは今も変わらない。
 これといってすることもなく、時間を持て余した気分になっていたところだったので、にわかに従弟の訪問が楽しみになってきた。
 一体、相談したいこととは何だろう?
 そういえば宏基は今年、高校3年のはずだが……ストレートに考えれば、この時期なら受験についての相談、志望大のこととかだろうか。思い返せば、今年になってからは帰省中に何度か電話をもらっていた……らしい。というのは毎回外出中で、一度も自分では受けていないからである。そのたびに、またかけ直すと従弟は言っていたらしいが、彩乃がいる時にかけてきたことはなかった──今までは。
 あいつの偏差値どのぐらいなんだっけ、などと考えているうちに、インターホンが鳴った。応対すると宏基の声だったので、ずいぶん早いなと思いつつも、玄関に向かう。
 ドアを開け──その先に現れた姿に、彩乃の目は釘付けになった。
 しばしの沈黙。
 「…………宏基、よね?」
 相手は一瞬きょとんとする。
 「当たり前じゃん。ちゃんと名乗っただろ?」
 何を今さら、と言いたげな口調だった。
 「そうだよね、なに言ってんだろあたし」
 冗談ぽく返しながらも、彩乃は内心まだうろたえていた。
 最後に宏基に会ったのはいつだったろう。
 親戚の誰かの法事だったか葬式だったか……ともかく、1年近くはまともに顔を見ていないと思う。
 その間に、こんなに変わるものだろうか。
 「ねえ、あんたってそんなに背が高かったっけ?」
 「彩姉、俺いくつだと思ってんの。18にもなったら背ぐらいそれなりに伸びるよ」
 ……確かに、小学生の頃は前から数えた方が早いぐらいだった身長は、中学の途中から急に加速して伸びていた気もする。いつの間にか周りの大人たちの大半を追い越しているのに気づいて、へぇと思った記憶はある。
 ただ、こんなふうに間近に並ぶ機会は久しい間なかったから、実感としては分かっていなかっただけで。
 今、目の前に立っている宏基は、162センチの彩乃でもかなり見上げなければ視線が合わせられないほど、長身になっていた。
 「それなりに、ってレベルじゃないでしょ。一体何センチあるの」
 「えーっと……春の身体測定の時は189ちょっとだった、たぶん。──ところでさ彩姉、今日って結構暑いんだけど、入ってもいい?」
 「え? あ、ごめん」
 言われてようやく、まだ玄関先での立ち話状態から動いていないことを思い出した。彩乃は慌てて数歩後ろへ下がり、家の中に招き入れる仕草をした。
 靴を脱ぎ、スリッパを履いて居間へと向かう宏基の、一連の動作を彩乃は見ていた。お茶を用意して来るからと言いおいて、台所に入って一人きりになり、やっと息をついた。
 (なんで?)
 どうして緊張しているのだろう。
 相手は子供の頃から知っている、しかも従弟なのに。
 ──けれどここ何年かは、昔ほど会う機会が多くなかったのも確かだ。むしろ、めったに会ってないと言う方が正しいぐらいに。
 久々に間近で見た宏基は、彩乃の記憶より遥かに成長していた。身長の伸び具合もさることながら、容貌の変化にも驚かされた。
 もともと、整って可愛らしい顔立ちではあったけど……年を経てずいぶん、予想以上に男らしさが付加されているように感じた。なんだか、よく知らない人が家に来たみたいで、半ば無意識に、相手の動きを目で追っていた。
 落ち着け、落ち着けと、彩乃は心の中で繰り返した。久しぶりに会った人物が予想外に変わっているなんて、珍しいことではない。成長期の、10代の男の子ならなおさらだろう。
 こちらの予測よりもずっと──格好良くなっていたから、ちょっと余分にびっくりしただけだ。
 そう自己分析しながら、何度か深呼吸をしていると、だんだん平常心が戻ってきた。グラスに冷えた麦茶を入れ、2人分持って居間へと引き返す。
 部屋に入る手前で立ち止まり、念のためもう一度、深く息を吸い込んだ。
 「お待たせー。はい麦茶」
 声が普段と同じ調子で出せたので、彩乃はほっとする。グラスをテーブルに置き、宏基が座る向かい側のソファに腰を下ろした。
 そこで初めて「ん?」と思った。
 自分が緊張している間はまるで気がつかなかったが、宏基も何故だか、負けず劣らず緊張しているらしい。視線を下に落とし、膝の上で何度も手を組み直している。
 何か話しにくいことでもあるのかな、と思うと同時に、今さらどんなことが話しづらいというのだろう、とも考えた。確かに会うのは久しぶりだけど、イトコ達の中では一番付き合いがあると言っていい間柄だから、話すのをためらうとしたらよほど重大なことだろう──とまでは推測しつつも、内容そのものは全く見当がつかなかった。
 「それで、相談ってなに?」
 彩乃が促しても、なおも口を開かず、表情もどことなく硬いままだ。
 不思議に思いながらも辛抱強く待っていると、
 「今日、ていうか今って、伯母さんとかは?」
 まるで見当違いのことを従弟は言った。虚を突かれつつも、彩乃は一応答える。
 「母さんはパートだし、他もみんな仕事に出てるけど? そんなことより何の──」
 「俺さ、K大受けることにしたから。第一志望で」
 にわかに、勢いづいた口調でそう言った。
 「……へぇ? そうなんだ」
 「意外?」
 「んー、ちょっとね。いつの間にそんなに勉強するようになったのかなーって」
 彩乃が知っている宏基は、ひいき目に見ても成績が良いとは言えず、勉強好きでもなかったのだ。からかいを含んだ彩乃の言葉に、こわばっていた表情が少しだけほぐれる。
 「まぁ、受けるんなら頑張んなさいよ。それで大学のことを聞きにきたわけ? 今日は」
 「それもあるけど──」
 言いよどむとともに、再び宏基の顔から笑みが消えた。少しの間の後、相手が発した声音は、いやに真剣なふうに聞こえた。
 「あのさ、彩姉。もし俺が合格できたら……」
 それまで伏せていた目を静かに上げ、従弟はこちらを見つめる。そしてこう続けたのだ。
 「──そしたら、俺の彼女になってくれる?」

 そこまで話して、彩乃はいったん黙った。
 奈央子は考えるように頬に手を当てながら、
 「──で、彩乃はなんて答えたの、宏基くんに」
 と聞いてきた。 まあ当然である。
 「なんてって……」
 どう言おうかと考え、彩乃は思い出すような間を置いた。本当は思い出すまでもなく、しっかり覚えているのだが。
 『──なに冗談言ってんのよ』
 宏基の発言後、それが彩乃の第一声だった。そしてさらに、畳みかけて言ったのだった。
 『まあ、そんな余裕があるなら案外楽に受かるかもね』
 彩乃の返答を聞いて、奈央子は小首をかしげる。
 「ふうん、冗談だと思ったんだ」
 何やら含みのある言い方に聞こえた。
 「当たり前でしょ。それ以外になにかあるわけないじゃない」
 だったら、と言いながら奈央子は、彩乃の方へと身を乗り出した。
 「どうして、まだそんなに気にしてるの?」

 奈央子はやっぱり鋭いなと、あらためて思った。
 調べものが終わり、奈央子とは大学の最寄り駅で別れて帰る道すがら、彩乃は考えていた。
 実際、自分でも不思議に感じるぐらい、何度もあの時のことを思い返している。
 冗談だと思ったはずなのに──そのくせ、100パーセント完全には、そう確信できない自分もいる。
 あの時の宏基の目が、一瞬、怖いぐらい真剣に見えたせいだ。
 彩乃に向けた視線が、今まで見たことがないぐらいに真摯で……そんなふうに誰かに見つめられた経験はあまりなかったから、反射的にどきりとした。
 すぐに、自分自身でその反応を打ち消しはしたけど、気のせいだと考えるには、相手の態度も自分の反応も明確すぎる気がした。何故か、どちらも認めたくないととっさに思って、何の冗談かと口にしたのだけど──
 心の奥に引っかかるなにかが、事あるごとにあの時を思い出させる。そのたび、そんな自分がどこかおかしいと彩乃は思う。
 宏基は、弟も同然の存在であるはずなのに。
 ほんの子供の頃は単純に、慕いまとわりついてくるのが常だった。幼稚園から小学校低学年にかけては、何故だか妙に生意気になる時があり、こちらが年上にも関わらず何度も泣かされた。彩乃が昆虫を苦手なのを知っていて、手に持って追いかけ回してきたりしたことも少なくなかった。おかげで今でも虫嫌いは治っていない。
 しかしそういう「意地悪」も、彩乃が中学に上がる頃には鳴りをひそめた。逆に、彩乃の前ではおとなしすぎるぐらいに、一時期は口数も少なかった。
 そうなったらなったで気になるもので、どうしたのかと考えることもあったけど、いつの間にかまた、会えばそれなりに話すようになっていた。だから、気にしたこともほとんど忘れていた。
 ……再び何かが気になるほどには会う機会も多くなかった、と言った方が正しいかも知れない。中学生にもなると、年下の従弟にかまうよりも優先したいことが、圧倒的に多かったのも確かだ。
 それは向こうも同じだっただろうと思う。実際、宏基が中学に入るか入らないかの頃から、訪ねて来るのは叔母一人になった。男の子はあれぐらいになると一緒にいてくれなくてつまらない、と叔母が母に愚痴っていたのを思い出す。
 だからここ6年ぐらいは、会うとしても年にせいぜい2・3回、親戚の冠婚葬祭行事での機会である。そういう場だと手伝いに忙しい時が多く、特定の相手とゆっくり会話することは少ない。宏基とも、何かのついでに話すことはあっても、長話をした記憶は全くなかった。
 つまり、二人で顔をつき合わせて話したのはおそらく数年ぶりで、文字通り「二人きり」だったのは(小さい頃を別とすれば)たぶん初めてだ。
 今までは一歩離れたところから見てきた、宏基のここ数年の成長具合を、初めて間近で目にした気分だった。記憶にある以上の変貌ぶりに、正直言って戸惑うほどだった。
 ……自分らしくない、と彩乃は思う。
 相手がちょっと──どころではない気もするが、ともかく、格好良くなってたからといって、それでいきなり心動かされるような柄ではないはずだ。
 そう思った時、何故だか奈央子と羽村#柊__しゅう__#──親友と、彼女の幼なじみのことを連想した。
 奈央子に初めて会ったのは、中学校の入学式当日である。同じクラスになり、出席番号が近かったので当初は行動班も同じだった。必然的に一緒の機会が多く、気が合う相手だとわかるまでにそう時間はかからなかった。
 柊のことも、その頃からよく知っている。同じくクラスメイトだったし、柊の方がしょっちゅう、こちらが会話中だろうが何だろうがかまわず、奈央子に何かしら頼み事をしに来ていた。
 そういう時、奈央子は「あのねー」と文句を言いつつも、たいていは柊の用件(主に宿題とか、テストのヤマについての質問とか)を優先していた。その場で済む範囲に限ってではあったが。
 けれどその範囲を超えることで柊が優先されたとしても、彩乃は不思議に思わなかっただろう。一見怒った顔をしながらも、柊に頼られることが奈央子は嬉しそうだったからだ──奈央子を問いつめ、柊への気持ちを白状させたのは、中1の夏休みか2学期あたりだったと思う。
 そして柊も、そういう頼み事以上の部分で、奈央子に依存しているように彩乃は感じていた。質問そのものが解決しても、居座って会話に加わってくることがよくあった。奈央子としゃべっている時の柊は、見ようによっては、男友達といる時よりも楽しそうだと思っていた。
 彩乃は、そんな二人をずっと身近で見てきた。
 だから、奈央子が女子高に進学すると決めた時は驚いたし、柊が同じ高校の女子と付き合い始めたと聞いた時にはもっと驚いた。いずれ二人は付き合うようになるだろうと、信じて疑わなかったからだ。
 想いを伝えようとはしない(それどころか避けていた)奈央子の態度ももどかしく感じたが、柊の朴念仁さにはさらに呆れた。確実に思い合ってるくせに、お互いそれに気づかない──柊に至っては自分の気持ちさえわかっていないのが、内心ずっと腹立たしかった。
 まあ結果的には、数年回り道はしたけど、正式に恋人同士になったわけで……去年の終わりに奈央子から報告された時、彩乃は非常に安心した。そうなる前には少々の紆余曲折があり、それに関してつぶさに聞いていた側としては、本当に気が気でなかった。当時、ひどく情緒不安定だった奈央子に、そう言うことはできなかったけど。
 何にせよ、今の奈央子はとても幸せそうだ。
 あからさまにベタベタしたりすることは全く無いけど、柊との間の空気が、付き合う以前とはまるで違うのがわかる。
 見ていてうらやましくなるぐらい仲が良くて、それでいて雰囲気が穏やかでやわらかい。同じような付き合いがしたいと自然に周りに思わせるような、そんな二人だった。
 本当によかったと、心から思う。そう思う理由のほとんどは、もちろん奈央子が大事な親友だからであるが、もうひとつ、誰にも打ち明けていない密かな事情がある。
 出会ってすぐの一時期、彩乃は柊を好きになりかけていた。当時からわりと背が高く、比較的整った顔立ちをしていた柊は、男子の中ではちょっと目立つ存在だった。加えて勉強・スポーツの成績も悪くないとなれば、女子の目が集まって自然である。
 もっとも、当人がそれを自覚していたかは疑わしいが。女心には(奈央子に言わせれば)おそろしく鈍感だし、そうでなかったとしても、目立つという点では段違いだった奈央子が近くにいたから、彼自身に向けられる視線には気づきにくかったかも知れない。
 そんなふうに、柊もそれなりに注目されてはいたのだが、告白などの具体的な行動に出る女子は、実際にはほとんどいなかったのではないかと思う。彩乃がそうであったように、奈央子のような美人で頭も性格も良いという、文句のつけようのない存在を実際に目にしては、立ち向かう気をなくしてしまう女子が大半だっただろう。
 もっとも彩乃は、ずいぶん早くから奈央子の気持ちにも気づいていたから、思い切るのも早かった。まだ本当に淡い感情で、自分の中ではっきり形になる前だったから、諦めることも難しくはなかった。
 その頃にはすでに、奈央子を親友だと認識していたからでもある。彼女には幸せになってほしいと思ったから、見守ることに決めたのだ。奈央子の想いの深さを知るにつれ、その思いはより強くなった。
 ……そういえば、柊に好意を抱いたきっかけは何だったろうと、彩乃は思う。奈央子を介して話しているうち、良くも悪くも裏表のない性格が好ましいとは感じたけれど、最初に会った時──奈央子と柊が幼なじみと知る前からすでに、なんとなく「いいな」と思っていたような……
 結局は一目惚れみたいなものだったのかなと考えて、彩乃ははっとする。
 (……まさかね)
 他の相手ならともかく、宏基に対してそんなことあるわけがない。
 ──何故なら、宏基は「弟」なのだから。それ以上でもないし、それ以下でもない。
 勝手に騒ぎ出した胸の内を落ち着かせるため、彩乃はそう結論づけた。
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