walk along~『ココロの距離』後日談

〈3〉二次会での報告


 「で、旦那さんは今日はどこ行ってんの?」
 「例の二次会。ねえ彩乃(あやの)、その……旦那さんていうの、やめてくれない」
 「なんで。いいじゃないの別に、事実なんだから。そうでしょ、奥さん」
 「……だから、そういうふうにからかわないでってば」
 入籍して2ヶ月。夫婦という立場にはまだ、二人とも慣れなくて照れくさい。旦那さんだの奥さんだのと呼ばれると、半ば本気で困ってしまう。
 ましてや、中学からの親友で、自分たちのことをつぶさに見てきた瀬尾(せお)彩乃が相手ではなおさらだ。
 こちらの当惑などおかまいなく、彩乃は実に楽しそうに、にやにやと笑っている。祝福する気持ちがあるからこその物言いだとわかっていても、やはりくすぐったくてしかたない。
 7月中旬、晴れの日曜日。母校である私立K大学近くの喫茶店で、数ヶ月ぶりに会った。
 彩乃は現在文学部の博士課程に在籍しているが、日曜は当然休みである。卒業以来一度も足を運んでいないから久しぶりに行ってみたい、と奈央子の方から口にしたのだった。
 「このへんは、あんまり変わってないね」
 「うん、バス停の向こうもコンビニになったぐらいかな。お弁当屋さんは去年閉めちゃって。それよりさ、写真早く見せてよ」
 と期待をこめて言われた瞬間、また気恥ずかしさが戻ってきた。「絶対持ってきてね」と彩乃は昨夜も電話をかけてきて念を押したし、もちろん忘れてはこなかったが、反射的に躊躇を感じてしまうのはどうしようもない。
 それでも結局はカバンから取り出し、向かいに座る親友に渡す。布張りの表紙を開いた途端、彩乃の目はそこに釘付けになった。ずいぶん長く、無言でそうしているので、次第に落ち着かなくなる。
 「……びっくりした。想像以上にきれい」
 やっと口を開いたと思ったらそんな台詞で、どうにもいたたまれない気持ちになってしまう。そこに写っているのが自分とは思えないからだ。
 「まぁ、その分て言っちゃ悪いけど、こっちの真面目さがなんか笑える」
 写真の片側を指差し、一転しておかしそうな口ぶり。その点は正直、同意だった。一番そう思っているのは本人だから、柊の前で口には出せないが。
 「でも奈央子、ほんとにきれい。ご両親も喜んだんじゃない?」
 確かにその通りだったし、結果的にはよかったと思う。当初、結婚式をやるつもりは全くなかったのだ。日にちの余裕も予算もないと思っていたし、式に対するこだわりも持っていなかったから。
 だが双方の家族は全員、せめて内輪でだけでも式は挙げなさいと強く言ってきた。一番強硬だったのは、今や義理の姉となった公美。『私が、式場も他の段取りも全部手配してあげるから』とまで言われては断るわけにいかず、式を挙げる覚悟を決めた。
 ……確かに、何の前触れも予告もなく結婚を決めてしまったのだから、せめてその意見は容れるべきだと二人とも考え直した。両親の説得は懇願に近いものがあったし、彼らが式を挙げてほしいと思う気持ち、とりわけ奈央子の両親がそう願う気持ちは、奈央子自身も柊もよくわかったから。
 その後2週間も経たないうちに、公美は本当に全ての手配を済ませて、6月中旬の大安の日曜で式場を確保した。その時点で5月末だったし、半年前であっても、6月の大安の予約なんて難しいはずだ。
 そんな無謀というか無茶というか、ともかくあり得ない状況で式場確保ができたのは、公美が職業柄とても顔が広く、その人脈を最大限に利用した成果なのだろう。いくら身内のためとはいえ、仕事で忙しい中、よくそこまでやってくれたものだと思う。しかも、状況を考えればこれまたあり得ないほどの低予算で。その支払いは、全額払うという両親側との攻防の末、最終的には折半で決着がついた。
 「えっと、式に呼ばなくてごめんね。決まったのが半月前だったからすごいバタバタしちゃって、両方の家族と近くの親戚が精一杯で」
 「それは別にいいって。今は大事な時期だから式も短めで、披露宴はしないってちゃんと聞いてたし。その代わり、落ち着いたら集まる段取りは今から考えとくからね。地元の子も総動員で」
 楽しそうな彩乃の様子からすると、すでにある程度、具体的な企画が立てられているのかも知れなかった。彩乃を含め、そういう「お祭り」を企画するのが大好きな人物の心当たりは数人いる。
 祝ってもらう立場としては喜ぶべきなのだが……中学までのことを知っている彼女たちがいったいどんな「お祭り」を催すつもりなのか、不安も感じないではなかった。つまり、ある意味で急転直下な展開だという自覚はあったから。
 「ところで」と、彩乃が視線をやや下に落とす。
 「男か女かはまだ調べてないんだっけ。希望としてはどうなの?」
 奈央子も、彩乃の視線が向く場所、自分のお腹に目をやる。最近ふくらみが少しばかり目立ってきた。服も今までのものは合わなくなってきたので、徐々にマタニティスタイルに移行しつつある。
 「んー、考えてないなあ。くーちゃん、じゃなくてお義姉さんは、絶対男がいいって言ってるけど」
 「え、なんで」
 「……女の子だと柊に似る可能性が大きいから、だって」
 彩乃は間髪入れず吹き出した。すぐに「ごめん」と言ったものの、笑いを容易には抑えられないらしく、うつむいて口に手を当て、肩を震わせている。
 いかにも公美らしい、率直すぎる意見である。柊がその場にいなかったのがせめてもの幸いだった。聞けばまた、当人は必要以上に落ち込んでしまうだろうから。
 ……それにしても、と奈央子は心の中でささやかにため息をついた。昔から柊には、自分を必要以上に過小評価する傾向がある。公美のような人が身近にいるから多少はしかたないとはいえ、ちょっと意識過剰なのではないか、と今でもたまに思う。
 思えば奈央子に対しても、特に付き合い始めてからはそんなところが見受けられた。確かに成績などでは上回っていたかもしれない。だがもっと根本的な意味で、柊より上だと思ったことは一度もない。勝ち負けを論ずるならたぶん、自分はずっと負けっぱなしだ──好きだと気づいた子供の頃から。
 彼なりに年齢相応に成長したところはもちろんあると思うが、柊の基本的な性質は、24歳の今でも全然変わらない。鈍感で不器用で、時々ものすごく子供っぽい。そして、驚くほど裏表がなくて正直だ。
 そのせいで手間をかけさせられたり、もどかしく思わされることがあっても、彼の性格の変化のなさには、実のところ安心もしている。小さい頃に好きだと思った、そのままの柊であることが。
 おそらくこの先もずっと同じふうでいてくれる、変わらないでいてくれると、信じていられることが心から嬉しいと思える。そんなことをつい口にすると、親友はふふと笑った。
 「相変わらずだね。いいなあ、幸せそうで」
 「なに言ってんの、そっちだって順調じゃない。結婚待ち状態なだけで」
 「……まあ、ね」と、いつもの彩乃らしくない躊躇が混ざった、同時に可愛らしい照れをも含んだ反応が返ってくる。今は遠距離恋愛中の、従弟でもある2歳下の彼氏のこととなると、彼女の方が年下になったみたいな、こんな態度を見せることが多い。
 「でもほら、あたしもせっかくドクター進んどいてすぐやめるわけにもいかないから。せめて論文ひとつぐらい書かないとね」
 照れをごまかすためにか、目をそらして咳払いを繰り返す。そしてふと思い出したように聞いた。
 「そういや、今日の二次会に来る人たちって知ってるのかな、結婚のこと」
 「……知らないんじゃないかな。結婚はがき出したの親戚だけだって言ってたし」
 と返すと、彩乃はまた楽しげな笑みを浮かべた。
 「そっかー。じゃあ、大騒ぎになるだろうね」

     ◇

 大学のサークル仲間がこれだけ集まる場に来るのは、少なくとも柊は久しぶりだった。たぶん、今日の主役である望月里佳(もちづきりか)と前に会った時、1年ぐらい前の飲み会以来ではないかと思う。
 里佳と、その結婚相手を祝う二次会は、友人代表の挨拶ののち、食事しながらの歓談へと進んだ。
 こういう二次会には、会社の先輩などが結婚した時に数回参加しているが、今日は賑やかさ、騒がしさの質が明らかに違う気がする。どちらも学生時代の友人に限定して招いているという話だから、出席者全員が、昔に戻ったような気分になっているのかもしれない。
 柊自身も、そして同じテーブルの面々も例外ではなく、昔話と近況がほどよく混ざった会話に花を咲かせていた。だが里佳が近づいてくると、そちらに注目した直後に誰もが黙り込む。そして数秒の間の後、感嘆の声、もしくはため息を洩らした。
 里佳が着ているのは、艶のあるピンクの内側に淡いクリーム色の柔らかい生地を重ね、あちこちに黄色い花をあしらったドレス。髪にも同じ花を飾ったスタイルはよく似合っていて、確かに人目を惹く。
 ──自分たちは披露宴も二次会もやらなかったから、奈央子が着たのはウエディングドレス1着だけだった。こういうのを彼女が着てもきっと似合っただろうし、見てみたかった気もする。
 まあ、ウエディングドレス姿だけでも充分にきれいで、全く不満はなかったのだけど。
 ……自分の、滑稽としか言いようのなかった格好は置いておくとして。
 ともあれ里佳は、衣装の華やかさに負けないほどの明るい笑顔で、本当に幸せそうだった。それは間違いなく、結婚相手が与えてくれたものだ。
 その当人──日下部(くさかべ)氏は今、友人らしい数人がいるテーブルに引き止められて、カメラのフラッシュとビールの乾杯攻めに遭っている。
 里佳と「付き合って」いた2年間、最後まで恋愛感情を持てなかった事実は、思い返すと今でも少し申し訳なく感じる。そして、柊以上に奈央子がそのことを気にしていたのを、彼女自身は口にしなかったけれど知っている。だからこそ今、日下部氏には心から感謝したい気持ちだった。
 「ちょっと、ねえ」
 という声とともに腕を引っ張られ、はっとして柊はそちらを振り向いた。隣に立つ女性が、笑顔の中に怪訝そうな色を混ぜて見上げている。里佳と一番仲の良かった林祥子(さちこ)だ。
 「悪い、なに?」
 「なに、じゃないわよ。さっきから呼んでるのに聞こえてないの」
 え、と周りを見回すと、いつの間にか他のテーブルの面々も何人か寄ってきていて、皆一様に、祥子と同じ表情をしている。くすくすと笑い声を立てたのは、その中心にいる里佳だった。
 そういえば今日、まだ一言も話していない。
 「……えっと、おめでとう望月」
 「ありがとう」
 もう望月じゃないって、と数人からすかさずつっこみが飛ぶ。里佳は屈託のない笑みで「いいから」と彼らをなだめた。
 「ところで、羽村くん最近どうしてるの。あ、沢辺さんは元気?」
 絶対、誰かにはそう聞かれると思っていた。それが里佳だったのは皮肉なのか幸いなのか、判断に困るところではあるが。
 思いきり注目されている中、打ち明けるのは非常に勇気がいる。だが嘘をつくわけにはいかないし、皆にはちゃんと報告するべきだとも思う。
 今朝からずっと、意識的に人の目から隠していた左手を持ち上げる。指輪に目ざとく気づいたらしい何人かが目を見張った。
 「実は、5月に結婚した。年明けに子供生まれる」
 ええっ、と予想以上の大きさでどよめきが起こった。10人程度の声が、会場内の他のグループ全員を振り返らせるほどに大きく響き、
 「なにそれ、聞いてない」
 「計算合わないじゃん、ひょっとしてデキ婚?」
 「羽村が親になんの? うわー似合わねー」
 口々に、しかもさらに大声で言うものだから、何が起きているか知った別テーブルの連中が次々に集まってきた。
 デキ婚で正解だとか、だから身内だけの結婚式で済ませたとかどうにか答えつつ、いっそ奈央子も連れて来るべきだったかと一瞬、切実に思ってしまった。それほど浴びせられる質問や感想の勢いはものすごく、一人で対応するのは大変だった。おまけに事情を知らない相手側の招待客に説明を始める者が出る始末で、収拾のつかない状況になりつつある。
 限りなく続きそうな騒がしさの隙をやっととらえて、柊は両手を上げて周りを抑える仕草をした。
 「まだなんかあるんなら後で聞くから。今は望月、じゃなくて日下部さんのお祝いなんだから、それぐらいにしといてくれよ」
 やや息を切らしながらそう言うと、ざわめきの質が変わるのがわかった。それもそうだね、と誰かが言い出し、興奮がすっとおさまっていく。
 それを確認してから里佳を振り向き、騒がせたことを謝る。今日の主役なのに、一時とはいえ蚊帳の外に置いてしまった。里佳は、他の皆と同じように驚きは浮かべていたものの、全く不愉快そうではなかった。そればかりか、笑みを見せて首を振った。
 「気にしないで。皆が騒ぐのわかるし」
 確かに奈央子は昔から目立っていたし、大学時代も学内で指折りの才媛として有名だった。彼女狙いの男子学生の中には、サークルの仲間も数人はいたはずだ。
 だから付き合っていると知られた後は、それまでは幼なじみ止まりと認識されていたせいもあって、しばらくの間いろいろ言われたものである。
 それを、当事者の一人だった里佳に思い出させられるのは、若干とはいえ複雑なものを感じざるを得ない。別れて何ヶ月も経っていなかった頃だから、里佳も何かしら言われていたに違いないのに。
 だが里佳の表情に、そういった過去へのこだわりはかけらも感じられない。含みのない笑顔のまま、さらに言葉を続ける。
 「でも意外、羽村くんたちがデキ婚って。向こうのご両親に挨拶する時大変だったんじゃない?」
 「──ん、まあそれは」
 つい言葉を濁す。確かに大変ではあった、主に自分自身の気分の点で。実家でさんざん打ちのめされた直後だったから、ああいう場合でなければまっすぐ帰りたかったほどに疲れていた。それだけに、奈央子の両親がすんなり話を受け入れてくれたことには、本当に救われた気持ちになった。
 厳密に言うなら、父親はやはり複雑そうな表情と態度を見せていたが、一人娘をどれだけ可愛がっているかを長年見てきて知っているだけに、それはまあ無理もないと思う。奈央子の父親は普段は穏やかな人だけど、怒る時には自分の子もよその子供も、同じように厳しく叱りつける人でもあった。
 そういう怖いイメージのせいだけではなく、今回の件では何かしら厳しい言葉をもらうか、もしくは一発ぐらい殴られてもしかたないとは考えていた。その予想からすると、あの場での気まずさなどはたいしたことはなかった、とさえ思える。面と向かっては「奈央子が選んだのだから信じることにする」と言われただけで、他には何もなかったのだ。
 たぶん、母親が非常にうまく取り繕ったり、なだめたりしてくれたのだろう。なにせ、二人で訪ねて行っても驚いた顔ひとつしなかった──あまつさえ薄々わかっていたと言い切った人である。逆にこちらが、奈央子でさえ少なからず意表を突かれた顔をしたほどに、驚かされた。
 そして、挨拶の前後の雰囲気を、奈央子と母親が絶えず明るく保ち続けてくれたのも本当にありがたかった。似た者母娘の見事な連携と威力を見るにつけ、沢辺家の女性には敵わないと思ってしまったことは、大きな声では言えない事実である。
 「けど、喜んでもらえたから」
 途中をかなりすっとばした結論だが、そうだったのは違いないし、少なくとも今日のこの場で詳しく説明を始めるのは、単純に面倒だと思う気持ちがあったことも否めないが、それ以前に筋違いだろう。
 「そう、よかったね。おめでとう」
 奥さんによろしくね、と続けて言われ、照れくささも覚えたが、それ以上に大きな喜びで満たされるのを柊は感じた。家族以外に初めて言われたのと同時に、相手が里佳だからというのもあるかもしれない。立場が逆だな、とは若干思いつつも。
 満面の笑みを向けてくれている里佳に、柊は笑顔とともに「サンキュ」と返した。
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