みずたまりの歩き方
ドアを開けると、戸を閉め忘れた風除室を抜けて、雪と風が吹き込んできた。
ロールカーテンが大きくあおられる。
驚いてドアを閉めたら、今度は重力に従って落下してきた。

「痛っ」

美澄をかばって覆い被さった久賀に、カーテンがぶつかった。
一瞬回された腕はすぐにほどかれ、久賀は自身の頭をさする。

「先生! 大丈夫ですか?」

「大丈夫です。さっきより痛かったけど」

カーテンがぶつかった部分へと、美澄はおろおろと手を伸ばす。
しかし触れられずに空中をさ迷った挙げ句、結局下ろした。

痛みに歪んだ顔のまま、久賀は口調を荒げた。

「納得していないくせに話を切り上げるのはやめてください。『追いかけてくれ』と言っているような態度は好きではありません」

「私だって、わかってるくせにまともに取り合おうとしない態度は好きじゃないです」

久賀は苛立たしげに、さっき撫でたあたりの髪の毛をくしゃりと握った。

「あなたに馨を紹介したとき、僕は手を離したんです」

「知ってます」

「連絡するつもりもありませんでした」

「知ってます」

「あなたが何にも縛られず、存分に将棋を指せるようになることが、僕の願いです」

「全部知ってますよ」

黒いパーカーの袖を、美澄はぎゅっと掴んだ。

「私が、だめな生徒なんです」

振り払われても離さないように、美澄は手に力を込める。

「先生……」

目の前の通りを、大きな車が通り過ぎる。
ガタンと揺れる音と、みずたまりを踏み越える音が同時に聞こえた。

強く握られている袖を、久賀はそっと引く。

「……だめなのは僕です」

そう言って、今度こそ美澄を腕の中に包んだ。

「僕はいつも、いちばん大事な選択を誤る」

そんなことないです、と反発して身動いだが、頭ごと抱えられて動きは封じられた。
顔に襟のボタンが当たって少し痛い。

「僕には将棋しか取り柄がなくて、その将棋ですら、もうあなたを導くことはできないのに」

「だから将棋の話じゃないんです」

美澄の頭に久賀が頬を寄せる。
眼鏡の感触とため息の温度まで直接届いた。

「あー、本当にいいのかなぁ……」

迷いを口にしながらも腕の力は緩まなかった。
そのことに安堵して、また“先生”ではない触れ方に頬を染め、美澄はチェックのシャツに顔を埋めた。

「もう遅いですよ。拒絶するならもっとうまくやってください」

「そうですよね。すみません」

久賀は美澄を解放し、誓うようにその右手を取った。
薬指、中指、人差し指。
駒の名残を追って久賀の指がすべる。

「あなたの邪魔にならないように、僕もせいぜい努力します」

よく知っているのに触れたことのなかった右手は、美澄が思っていたより大きく骨張っていて、あたたかかった。
美澄も久賀の三本の指をきゅっと握る。
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