みずたまりの歩き方
時刻は午後七時半を過ぎていた。
だいぶ日は長くなったが、それでもとっぷりと暮れ、電線にかかるようにまるい月が見える。

コート代わりにしているシルバーラメのカーディガンからスマートフォンを取り出し、月に掛けるような気持ちで通話ボタンをタップする。

『はい』

久賀の声で、笑うように月が明るさを増した。

「あれ? 出た」

『出たらだめなんですか?』

「まだ営業中のはずだから、出ないだろうと思ってたんです。お仕事終わったんですか?」

『今日はお客さまがいなくて、早めに閉めました』

「お疲れさまです」

『そっちは? 外?』

車や風の音が届いたようで、久賀はそう尋ねた。

「師匠が熱を出して、お薬を届けに行ってました」

『え?』

「あ、大丈夫みたいです。悪態つくくらいにはお元気でした。今は真美先生と交代して帰ってる途中です」

そう、という声とブラインドを降ろす音が聞こえる。

「先生、生活と将棋の両立って難しいのでしょうか」

美澄が唐突な質問をすることにも慣れた久賀は、少し考えてから答えた。

『どの時代においても、棋士は将棋に付随する煩雑な業務との両立を強いられてきたはずです。例えば江戸時代の将棋家は、毎月のように開かれる幕府の冠婚葬祭に出席する義務を負っていたそうですし、幕府解体後は兼業が一般的でした。今だって、将棋だけしていられる人は少ないでしょう』

トップ棋士になればなるほど、その知名度と影響力は大きい。
そのため取材や多方面への人脈作りなど、将棋界全体を担う仕事が増える。
学生時代には学校があり、出産すれば育児がある。
将棋だけに集中できる人の方が少ない。

『程度の差こそあれ、みんなそれぞれ事情は抱えているものです。でも盤を挟んだら関係ない。そうでしょ?』

ケガや病気をしてもハンデが与えられるわけでなく、欠席したら不戦敗。
盤上がすべてという明快でシビアな世界だ。

「そうですね。だからいいんですよね」

かつて「名人」は世襲性で、どんなに実力があっても成り代われるものではなかった。
今は明確なルールに則って戦い、勝った者が「名人」を名乗る。
品格や出自を含め、盤外の余計なものが精査されることはない。
だから文句なく敬意が払われる。
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