みずたまりの歩き方
取った駒は伏せた駒箱の上に乗せているのだが、そこからポロリと歩が落ちた。
久賀はそれを戻さず、テーブルの上に並べておく。
もう台には乗らないほど、美澄の駒は久賀に取られていた。

「見事な姿焼きだねぇ」

ギャラリーの誰かが呟く。
穴熊は玉の周りを隙間なく囲うため非常に堅い囲いである反面、逃げ場がないという欠点がある。
美澄の王様は堅牢な城に囲まれているものの、それはただ引きこもっているだけで、場を制圧しているのは久賀だった。

美澄はようやく久賀の言葉の意味を理解していた。
屈辱的な負け方であると言われる「穴熊の姿焼き」。
久賀は最初から、美澄の玉を引きずり出すことなく、すべてを焼き払うつもりでいたのだ。

「古関さん、投了しな」

背後からそっと常田(ときた)がささやいた。
常田はこの倶楽部の常連で、老後の趣味としてほぼ毎日通っている。
指導対局に口出しするのは重大なマナー違反であり、常田とてそのことは承知しているが、見るに見かねてそう言った。

しかし美澄の頭の中は真っ白で、今や「投了」の概念さえも吹き飛んでいた。
ただ指まかせに駒を動かしているに過ぎない。

「古関さん、このままだと全駒されちゃうよ」

常田の声は震えていた。

全駒とは、玉将以外のすべての駒を取ることである。
棋力に大差がなければ為し得ず、また倫理に反するとさえ言われるので、そもそも全駒を狙われることはほとんどない。
美澄の背中には、いくつもの哀れむ視線が向けられていた。

「おいおい、久賀先生……」

と金に手を伸ばした久賀に、常田がたしなめるように声をかけた。
そのと金は、美澄の最後の砦なのだ。
哀願する視線を受けて、久賀はひっそりとため息をついた。
と金から手を引き、桂馬を跳ねて王手をかける。

「続けますか?」

久賀に問われ、美澄は、ああ投了すればいいのか、と思い至った。
それでようやくこの地獄が終わる。

雪の重みで枝が折れるように、美澄は呆然としたまま頭を下げる。
唇が震えただけで、投了の声は音になっていなかった。

身体を起こすと同時に、美澄はバッグを持って倶楽部を出た。
バスには乗らず、五十分歩き続けて自宅に着いても、真っ白になった頭が戻ることはなかった。

この年、クリスマスソングもイルミネーションも、美澄の記憶には残っていない。
あるのは、どこまでも広がる一面の焼け野原。
美澄はひとり、そこに立っていた。


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