みずたまりの歩き方
やがてたくさんの歓声と拍手が倶楽部中に響く。

「久賀先生ー! 古関さん、勝ったよー!」

久賀は大きく息をつき、そのままソファーに仰向けに倒れ込む。
そこにタブレットを持った常田がやってきて、投了図を見せた。

『先手投了 124手』

盤面は、美澄の金が水原の玉に迫ったところで止まっている。

「平川先生」

久賀は倒れた格好のまま呼び掛けた。

「はい。何でしょう」

「今日、このまま仕事休んでいいですか?」

「だめです」

平川は変わらない調子でパタパタとスリッパを鳴らす。

「今日は指導対局の日でしょう。生徒さん、そろそろいらっしゃいますよ」

しぶしぶ起きた久賀の背を、常田が叩く。

「情けないな!」

「……痛いです」

「今からこんなで、古関さんがタイトル挑戦したらどうするんだよ」

平川も指を折り数える。

「これでベスト16ですか。挑戦まであと四つ。道のりは遠いけど、可能性は残ってますね」

『タイトル挑戦』と聞いて、久賀はまた胃のあたりをさする。

「きれいな着物着て中継されてるのに、それ見て吐いたら振られるよ」

「だから吐いてませんって」

久賀はようやく立ち上がり、眼鏡の位置を直した。
ボサボサに乱れた髪のまま、カウンターに戻って指導対局の記録を確認する。

「古関さん、そろそろ帰ってくるんでしょう? 具体的な日にち決まったら教えてくださいね」

ビジネスのトーンで平川は言う。

「これで、よかったんでしょうか」

何周したのかわからない思考のループを、久賀はまた回り出す。

「わかりません」

平川はさっぱりと言った。

「でも古関さんが決めたことを、久賀先生が否定するのは違うんじゃないですか」

将棋界はどこまでも自己責任。
久賀もそうやって生きてきた。
平川はそんな久賀のことも美澄のことも見守ってきたのだ。

「棋士も人間ですからね。私生活だって決して軽視されるべきではないと思いますよ。それでタイトルを逃すことになったとしても、そこまで含めて実力です」

泣く場所があるから戦える人間もいる。
美澄のその場所が久賀であると、平川は考えているようだった。

「僕の方が頑張らないといけないんですよね」

必要としてくれる人の側は居心地がいい。
寄り掛かっているのは自分の方かもしれないと久賀は思う。

「せめて、練習相手でいられるレベルでいないと」

将棋は進化し続ける者しか勝てない。
足を止めたら途端に置いていかれる。
この世界にいる限り、前に進み続けるしかないのだ。


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