みずたまりの歩き方

「どうぞ。中も寒いですけど」

エアコンをつけ、ポットにお湯を入れる間、美澄は入口に立っているだけだった。
久賀も声をかけず、コーヒーメーカーのスイッチを入れる。

「学校は?」

美澄を置いてトイレ掃除に行くのもためらわれ、久賀の方から話しかけた。

「冬休みです」

「そういえばそうでしたね」

小学校は昨日終業式だったか。
今日あたりから来客数が増えるかもしれない。

「でもアルバイトがあるので、その前に先生に会えないかと思って」

「僕ですか?」

「はい」

これはあまりいい話ではないな、と久賀はこっそり身構えた。
以前にも似たようなことがあり、美澄にはできるだけ関わらないようにしている。

「それで、ご用件は?」

「あの……」

美澄は視線を落としたまま久賀の前まで進み出ると、そのまま頭を下げた。

「先日はすみませんでした。突然帰ってしまって……。失礼なことをしました」

ああ、と久賀はカウンターの上に並べているチラシをトントンと整える。

「指導対局をしていると、まれにああいうことはあります。怒り出す人もいるくらいです」

「そうなんですか?」

拍子抜けしたように美澄は頭を上げた。

「間違ったことは言ってないつもりなんですけど」

「間違ってないからじゃないでしょうか」

美澄は困ったように笑う。

「正しいことを言われた方が傷つきます。そんなときは、怒るしか反撃する方法ないじゃないですか」

「でも、正しい知識を身につけるしか、強くなる方法はありません」

「その通りですけど、先生の場合、言い方がちょっと……」

久賀が唇を結ぶと、コーヒーメーカーの音しか聞こえなくなった。
まもなくその音も止む。

「用事はそれだけですか?」

美澄はモジモジとダウンの袖を引っ張る。

「それから、お願いがありまして」

「はい」

「先生、一昨日の将棋覚えてますか? 将棋が強い人は、手を全部覚えてるって聞くので」

「覚えてます」

事も無げに久賀は言い切った。
先月と言われたら難しいが、一昨日ならばまだ思い出せる。

「棋譜を書いてもらうことはできませんか?」

久賀は一度キッチンに行き、マグカップに入れたコーヒーをふたつ持ってきた。
手近な机から乗せてある椅子を下ろし、そこにマグカップを置く。

「どうぞ」

美澄にコーヒーをすすめると、自分はカウンターの中に入る。
下から古いチラシを一枚引っ張り出し、その裏面にボールペンで符号(指し手を数字などで表したもの)を書き出した。
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