みずたまりの歩き方

「先生?」

この問いに正解はないはずなのに、何かを踏み抜いた気がして呼び掛けた。

久賀ははずした軍手をバケツに放り込み、新しい軍手をつけ直す。
おそらく何度も考えたであろうこの問題を、もう一度考えて、久賀はゆっくりと口に乗せた。

「『才能』が必要ないとは思いません。例えば脳の造りとして、計算力に優れた人や記憶力に優れた人は、そうでない人より将棋の上達は早い。上達が早ければ努力はしやすいし、結果として努力の量も増えます」

「はい」

久賀は机の上に腰掛けて宙を見る。

「脳の造りについては、例えば女性の棋士が生まれない理由を、脳の造りの違いだという人もいるし、ホルモンのバランスだという人もいます。これは『才能』という考え方に近い。けれど、単純に競技人口の違いだという人もいますし、歴史の違いだという人もいます。男性棋士の歴史が四百年あるのに対し、女流棋士が創設されて五十年に満たない。けれど近年は女性の競技人口が増えて、奨励会でも三段に上がる人も出てきました。まあ、これは女性の社会的立場が上がったことにも起因していると僕は思っていて、男性が女性と練習将棋を指すことに抵抗を感じなくなってきたことも大きいです。それによって、将棋を指す女性の棋力が……すみません、話がそれました」

「……いえ」

少なくとも久賀は、男女の棋力の差は生まれ持った違いであるとは考えていないようだった。
そこに決定的な線を引かれなかったことに、美澄はひっそりと安堵する。

「……結論から言うと、僕は『努力する才能』という言葉がきらいです」

正解不正解ではなく、久賀はここで好ききらいを持ち出した。
感情を優先しない彼にしては珍しく、だからこそ強い想いを美澄に感じさせる。

「だって、ずるいでしょ。『自分には才能がなかったんだ』『努力する才能もなかったんだ』全部言い訳できます」

久賀は机を降り、ブラインド掃除に戻った。
美澄もブラインドに視線を戻したが、どこまで拭いたかわからない。
仕方なく適当に目の前から再開した。久賀も手を動かしながら続ける。

「才能はあった方がいいです。絶対。上達が早ければ楽しい。楽しければ続けられる。続けられれば上達する。上達すれば楽しい。正のループです。でも、その才能の有無を論じるのは、すべての努力を尽くした後ではないでしょうか」

久賀の表情はおだやかだった。むしろ美澄を労るようにさえ見える。

「正のループがなくたって努力は続けられます。ただ、その原動力は結局将棋が好きだという気持ちだと思います。何万時間努力を続けても、楽しさを見出せる。そんなものに出会えるかどうかの違いであって『努力する才能』ではありません」

少なくとも、将棋を愛する気持ちは才能の有無によらない。
苦しいことの方が多い中で、それでも将棋をやめようとは思わないなら、努力する他に道はないのだ。
愚かだよね、と真依の声がする。

「僕は努力も、将棋に対する愛情も足りなかった。それだけのことです」

虚しく届かないとわかっていても、そんなことないです、と言わずにはいられなかった。
そしてそれは、雲の割れ目を絆創膏で閉じようとするほどに無力だった。

「いずれにしても、古関さんのレベルで『才能』を語るのはただの逃避です」

「先生、言い方……」

文句は言ったけれど、自分を否定された方がよっぽど痛みがない。
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