みずたまりの歩き方
美澄はというと、二局目はなかなか思うように指せず、気づいたら敗勢になっていた。

「……負けました」

クリックするのではなく、頭を下げ、自分の口で負けを認めることは、想像していた以上に悔しかった。
美澄はうめきながら首を折る。

「なんで……」

平川は駒を序盤の局面まで戻しながら、やさしげな笑い声を立てた。

「飛車と角がないから攻めたくなる気持ちはわかりますが、王様はちゃんと囲った方がいいですね」

「はい」

「二枚落ちには、銀多伝(ぎんたでん)など有名な定跡がいくつかあります。それを勉強すると早いですよ」

「銀多伝? 初めて聞きました」

平川はカウンターの後ろに並んだ棋書の中から、一冊抜き出して美澄に渡す。

「定跡さえ覚えれば、こんなのなんてことない」

美澄は棋書をパラパラめくって顔をしかめる。

「わー、難しそう。お借りしてもいいんですか?」

「どうぞ。古関さんは、とりあえず1級ですね」

「1級ですか? 初段じゃなくて?」

棋書から顔を上げて、美澄は声を荒げた。

「二枚落ちで私に勝てたら初段と認定しましょう。なに、すぐですよ」

美澄はソファーにもたれて天井を仰ぐ。
立て続けに二局指して初段ももらえず、頭の芯が痺れるような疲労を感じていた。

「1級かぁ」

「大丈夫、大丈夫。古関さんはセンスあるから、すぐ女流棋士にもなれますよ」

平川の言葉に、美澄は飛び起きた。

「女流棋士、ですか?」

自分が指すばかりで棋士には興味を持ったことがない。
そのイメージは、「そういえば男性棋士が着物で対局しているのを、テレビで見たことある気がする」という程度。
それは吐息ひとつで吹き飛びそうなほど曖昧なものだった。

自分にもあんな風に、将棋を指して生きていく道があるのだろうか。

「平川先生、だめですよ」

指導対局中のはずの若い講師が、通り過ぎ様に釘を刺す。
季節感のないサックスブルーの半袖シャツが、美澄の視界を横切った。

「安易にそんなこと言って、この人が真に受けたらどうするんですか」

彼はカウンターの中に入ると、チラシを一枚取って戻って行った。
美澄には一瞥もくれず、使い終わったティッシュをゴミ箱に放り投げるような、ぞんざいな言い方だった。
平川は気にした風でもなく、久賀(くが)先生は厳しいねぇ、と笑い飛ばす。

「真に受けたらいい。真に受けて、どんどん精進してくださいね」

「はい!」

ほかりとぬくもる胸に、美澄は古い棋書を抱き締めた。


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