みずたまりの歩き方
言葉少なにそう言った平川は、そっと美澄の背を押す。
その先、カウンターの中には一向にパソコンから顔を上げない久賀の姿があった。
平川の後押しを受け、美澄は自らカウンターを回り込む。

「先生」

呼び掛けても久賀は応えない。
声は届いているはずなので、意図的に無視を決め込んでいるのだろう。
少し恨めしげな表情で、久賀が諦めるのを待つ。

「……こういうのは苦手なんです」

困り果てたようにそう言うので、美澄はつい笑ってしまう。

しぶしぶといった風に久賀が立ち上がると、美澄の視線は久賀の腰元に向けられた。

「あの、先生」

「はい」

「最後のお願い、聞いてもらえますか?」

「……何でしょう?」

「Tシャツの裾、出してください」

「Tシャツ?」

久賀はTシャツと美澄を交互に見て怪訝な顔をする。

「先生、あの、ちょっと失礼しますね」

美澄が久賀のTシャツに触れると、久賀は息を飲んで硬直した。
その隙にパンツから裾を引っ張り出す。

「あ! 先生。香車一本分、かっこよくなりましたよ」

「お腹冷えませんか?」

「幼稚園児じゃないんだから」

どうでもいいやり取りはできても、さっきまで何度もくり返した挨拶が出てこない。
俯く美澄を、久賀は再度促した。

「時間ですよ」

「はい」

「12番線のはずです」

「はい」

「でも、乗る前に一応確認してください」

「わかりました」

時間に追われる形で、美澄はようやく頭を下げて別れの言葉を口にした。

「お世話になりました」

言葉はこれまでと同じだったけれど、声音が少し潤む。
押し寄せるたくさんの思い出をふり払って顔を上げると、久賀はわずかに目を細めた。
二十夜の月が二十二夜の月になる程度に、わずかに。
そして、ひと針ひと針オーダーメイドで、美澄のためにその言葉を贈ってくれた。

「頑張ってください」

美澄はゆっくりとまばたきをして、まつ毛の先にまでその想いを染み込ませた。

「はい。今まで本当にありがとうございました」

結局ギリギリの時間になり、美澄は倶楽部を飛び出した。
歩道と横断歩道の境目にはみずたまりがあり、青空を映している。
そこを飛び越えて駅へ走った。

「あ、雪」

はらはらと舞う風花が首元に落ちて、美澄は一瞬首をすくめる。
見上げる空はさっぱりと晴れて、門出を祝っているようだった。

「ああああ! 待って待って待って待って!」

発車メロディーが鳴り響く中、確認しないままに12番線の階段を駆け下りる。
最後の二段は飛び降りた。

「間に合った……」

エネルギーを込めるように走り出した新幹線は、徐々にリズムに乗っていく。
ほんの数時間後にはもう東京だ。

鉄道は、誰かの意志で街と街をつないでいる。
あの日久賀と眺めた踏切が、車窓の外を流れて行った。


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