みずたまりの歩き方
冷蔵庫の音が大きく聞こえるほど沈黙が続いた。
スプーンとお皿のぶつかる音。
福神漬を噛み砕く音。

「師匠」

「ん?」

「どうして私の弟子入りを許してくださったんですか?」

馨は顔を傾けて美澄を見つめたまま、カレー皿に山盛り二杯の福神漬を入れる。

「夏紀くんに恩売るチャンスだから」

「それだけですか?」

「棋譜は見たよ。女流棋士になれる見込みがない人を弟子に取るほどお人好しじゃないし」

「ありがとうございます」

馨は麦茶を飲んだが、うかがうように美澄から目をそらさなかった。

「誰かに何か言われた?」

「……かなり、レアケースだと」

「ああ」

慎重に言葉を選んだのに、馨はすぐに理解したようだった。
福神漬を飲み下してから言う。

「邪推する人はいるよね」

「師匠も何か言われますか?」

「もう慣れた」

慣れるというより、おそらく最初から気に留めていない。
馨はおだやかそうに見えるが、芯は頑固で揺らがないひとだ。
勝ち気で直截な物言いをする綾音でさえ、馨に余計な口出しはしない。
馨が決めたから、美澄はこの家に入ることができたのだ。
だからこそ、なぜ会ったこともない美澄の弟子入りを許したのか疑問だったが、納得の行く答えは得られなかった。

「棋界の師弟関係を理解してる人は何も言わないし、外野の言うことなんて気にしても仕方ない。これから女流棋士になれば、根も葉もないことを山ほど言われるようになるよ。いいトレーニングだと思ったら?」

「はい。そうします」

馨はひと口残ったカレーにほぼ同量の福神漬を合わせる。
さっき袋から開けたばかりの福神漬は半分以下に減っていた。

「師匠、福神漬お好きなんですね」

「カレーは福神漬を食べるための口実でしょ」

「私『口実』を作ってたんですか?」

「出来のいい『口実』だと思うよ」

馨はにっこり笑って、二杯目のカレーをよそうために立ち上がった。

「私やります」

「いいよ、別に。それより食べたら昨日の研修会の将棋振り返るからね」

「はい。お願いします」

まだ知り合って日は浅いが、美澄はこの師匠に久賀とは異なる類いの信頼を寄せていた。
人柄は久賀が保証してくれたとはいえ、それでも恵まれた出会いだったと感謝している。

不満など何もない。


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